聖書は民主主義?

                 野田 信行

現在の世界には、社会主義や独裁制の国もありますが、日本や多くのキリスト教の国々は民主主義を標榜しています。民主主義は、読んで字の如く、民を主とする主義で、何かを決める時の多くは多数決を原理とします。

二千年前のクリスマスに主イエスがお生まれになった時に、この方は神が人となられた救い主、メシアであることを認めるかとの多数決をしていたら、救い主として認められていたのでしょうか。主イエスを十字架に付けることは、多数派の意見に流されたピラトによって決められました。それは正しい判断であったのでしょうか。旧約聖書においても、民数記12章でカナンの地に偵察に行って、カナンの地に上ることは10対2の多数決で否決されました。それは御心に適ったことだったのでしょうか。

元英国首相のチャーチルは、「民主主義は最悪の政治形態である。それは民主主義以外の政治形態を除けばだが」と言い、民主主義は他の政治形態に比べれば、まだましだが多くの問題があると言っています。

民主主義が機能するためには条件がいくつかありますが、まず十分な情報が与えられて、理性的かつ客観的な判断が出来ることです。

旧約聖書の預言の内容を十分に理解していないと神が人としてお生まれになられたクリスマスを理解するのは難しいかも知れません。また理性的ではなく、ヒステリックに「十字架に付けろ」と叫ばれている中での裁判や、カナンの地の敵が大袈裟に伝えられて恐怖を煽っている状況で冷静な判断をするのは難しいと思われます。

そもそも罪人である民が主となって御心に適う判断を行うことが出来るのでしょうか。それではなぜキリスト教国や教会においても民主主義、多数決は認められているのでしょうか。

それはクリスチャンの一人一人には聖霊が与えられていて、クリスチャンは何かを決断する時に神に祈り、聖霊の導きを求めるからです。そして聖霊の導きはクリスチャン以外の人にも及びます。それによって聖霊の導きの総和である多数決は御心と考えられ、くじは行われなくなりました。

クリスチャンによる多数決は聖霊の導きの中で神の御心を求めるものですから、民が主である民主主義というよりは、あくまでも神が主である神主主義です。

「そこで私はこの大軍をすべてあなたの手に渡す。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる」。列王記上20:28

2020年12月号