神を待つ

山脇 望 牧師

 「しかし、目に見える望みは望みではない。 なぜなら、現に見ていることを、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見えないことを望むなら、 わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」 (ローマ8:24-25)
 巷(ちまた)はクリスマスをお祝いするためでしょうか。それとも飾りを楽しむためでしょうか。きれいに色どられております。

クリスマスは「アドヴェント」から始まります。待降節です。主イエスのお生まれになるのをひたすら待ち望んでいる人々がおられましたように待つのです。
これはすべての人に例外なく、神の恵み、祝福、救いをいただくために、人のできること、それは”待つ”ことであるということです。
人は待つことによって、生きているといったら良いでしょう。生きることは待つことです。赤ちゃんが生まれたら、「この児はどのような子供に、大人になるのだろう」と待つのです。それが親の待っているようになることを願って、両者が火花を散らすこともありますが。

ひとつの仕事に関わり、それがどのような結果になっていきますか、好ましい方向に進むように待つのです。 病で伏している方は全快の時を待っている、のです。

「待つ」ということは「期待する」ことです。「期待する」それは「期」を「待つ」のです。その時を待つのです。人は待つこと、すなわち期待することがなくなる時、生きる力が、喜びが、希望がなくなります。

待つ生活にありまして、わたしたちはいったい何を最も待っているのでしょうか。期待しているでしょうか。

それは、もちろん主イエスによる救いの恵みにあずかり、それに生きることですが、さらに、私たちのこの肉体があがなわれて、永遠の命にあずかるようになることです。これは、神の一方的恵みの働きを待つ以外にはありません。

クリスマスを向かえますこの時、救いの完成である、永遠の命の祝福を待つものとしての私たちであることを心にとどめましょう。

2000年12月号