決断と宣言

山脇 正子 副牧師

 つい最近のことです。私は、山脇の前で一つの決断と宣言をしたのです。 私自身どうしても、ゲームをしてしまい、必ず、そこに落ち込んでしまうできごとがあったからです。
 それは、自分を苦しめ、山脇をも苦しめてしまうできごとなのです。これが私の課題、ここからぬけだしたい。 もがけばもがくほど深い穴に落ちこんで行き、あげくのはてには相手の責任にして物事を解決しようとする愚かさなのです。

新しい出発をして、こけそうになる自分を励ましながら生活をしているこの私に、 東郷集会で開かれたみことば、もちろんメッセージをしたのは、この私なのですが

愛する皆さん。私は、まだ目標に達してはいません。
ただこの一事に全力を注いでいます。
すなわち、過去に執着せず、前にあるものを望み見、 ゴールに到着してほうびを得るために、 一生懸命努力しているのです。(ピリピ3:13~14 リビングバイブル)
「過去に執着せず」としるされていました。過去のものにがんじがらめになって身動きできなくなっている自分を発見します。忘れられず赦すことができない自分、そのこだわりを捨てること、そこにこそ真の解放があったのです。 身軽になった時、ゴールがはっきり見え「この一事」に全力を注ぐことができることも……。

 数日たって次の文章に出会いました。

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私は思い出します。
私は多かれすくなかれ、長い歳月の流れをふり返って眺め、 これらすべてにどんな価値があるのだろう、と自問します。
このことは なかなかよいことですし、人の心を冷静にしてくれます。
「あなたの道を愛しなさい」とある人が言いました。
「なぜならあなたの道は生命の道なのですから。 そして、その道を理解しない人間だけが、その道を非難するのですから」。
一切のことはありのままに受けとって、自分自身をあざむかないことです。
この自分に与えられた運命を肯定する態度から、 回顧する人間に非常に必要な平静な心が育ちます。 この肯定の態度から、神は私自身に可能な以上によく、 また別の仕方で、私の「価値」を定め、 また、品行方正とか、業績といったものとは 別の尺度を持っておられるのだ、という確信が育って来ます。
人間が、自分の生涯をふり返ってみて、自分をだますことなしに、 ほんのすこしでも自分自身を愛すことが出来るなら、 それこそが、神と一人の人間との意志の一致がある証拠であり得るのです。 (現代の祈り 振り返ってみること より)

2000年7月号