「今」どのような自分としておるだろう

山脇 望 牧師

 第50回「夏季聖会」が箱根において開催され、奉仕の時をもちました。 200名余りの兄姉が出席し、神の恵みとお取り扱いをいただく時でありました。

 今年が50回目であるということで、ささやかながら特別の企画をいたしました。 それは今までの聖会の様子を写真で紹介するというものでした。 残念ながら、枚数はそれほど多くはありませんでしたが、 とても興味深いもので、改めて時が流れていることを実感させられます。
スマートで若々しく、髪の毛もフサフサとしておる先生、誰が今日のお姿を想像したでしょう。なかにはもう天国に行かれた先生もおりました。

この写真を眺めながら、この写真に撮られている時、聖会に出席されていたこともすばらしいのですが、この写真で見られるものではなく、見るものとしてここにいるということがどんなに幸いな、祝福されていることであるかを実感いたします。

この写真の中には、今日教会から離れ、それのみならず信仰をも捨ててしまったような生活を送っている人もいるのではないかと思うのです。
あの時は熱心だった、あの時は恵まれていた。でも、今は...という姿です。 もちろん、「今」は決勝点ではありません。でも、今がすべてなのです。

「第1回聖会、50年前の私はどうだったのだろう。9歳の時だ。山形の地から茨城に移った時だろうか」「第10回の時、どのように生きていったらよいものか、自信をもてず動いていた時だ」
「第50回の時、聖会事務局長としてこの聖会の講壇に立っている」

わたしたちは、「今」をどのように生き、生活しておることか、自分の過去を見、将来を思いめぐらすことも大切でありますが、何よりも今、神との関係がどのようにされているかを見つめるものでありたい。
この一年の「下半期」がスタートした時であります。

2000年8月号