春、それは悲しみの時、命の時

山脇 望 牧師

 三月になりました。冬の季節から春に変わっていく時です。新しい命の営みが開始する時でもありましょう。英語では、三月のことを「マーチ」といいます。「行進する」「ねり歩く」という意味をもっております。「マーチ」と同響、同語ですから、三月は街を喜びをもって行進したい気持ちにさせるということでしょうか。そこには楽しさと喜びがあふれています。
 春はもうひとつ「受難週」を迎える時でもあります。この世に肉体をとられた主イエスが十字架の死に向かっていく、あの姿を思いめぐらし、神の恵みのみわざを心にとめ、感謝をささげる時でもあります。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」、主イエスです。
十字架、それは人間が受けなければならない悲しみ、罪のさばきを負いたもうた出来事であります。悲しみを身に受けたことによって、神は人の悲しみを知り、人の悲しみを共感してくださり、真の慰めと援助を与えてくださるのです。

春は新しく行動する季節でもあります。新しい学びの場に、仕事場に、そして新しい生活の場へと離れていきます。ときにはひとり孤独と不安を経験することでしょう。そして新しい自分を形成していきます。
それは「悲しみを知る」私への変身です。人は悲しみの中にあります。それ故に、悲しみを経験することによって、主イエスのように、人の悲しみに共感するようになり、他の人の援助者として生きることができるようにされていきます。
悲しみは、他の人との結びの綱のような働きをしています。人は悲しみの中に社会人とされていくのでしょう。

春、それは新しい命の躍動の時であると同時に、主イエスの悲しみを思いめぐらす時でもあります。主イエスが私たちのために悲しんでくださったことを知ることによって、新たな命がわいてきます。心の春を経験いたします。どんなに現実が冬のように厳しい北風にさらされていようとも、春を待つ心にされるのです。

また、私の悲しみが、どなたかの悲しみの克服のために用いられる時がきます。心の春を迎えるための援助者として用いられます。

2001年3月号