収穫の時まで耐え忍ぶ
山脇望牧師
8月の太陽に大自然の緑がひときわ輝きます。特に田に植えられております稲の葉は美しく目に入ります。
春、茶色の土の中にポツン、ポツンと植えられ、冷たい風に吹かれて、その中に耐え、今日の姿を見せています。
もう少しで収穫です。
田植え、そして収穫まで、人のわざはどの程度したのでしょう。田のある所を通って、ほとんど人の姿をみた事はありません。まさに、自然に稲が育ち、花を咲かせ、収穫になった時、姿をあらわしてそそくさと刈り取り、運び去っていくという感じがしてなりません。
稲の刈り入れ、収穫の時を、夢に期待して種を蒔くように、すべての人の人生を考える時、同じような心で生きていることです。豊かな収穫のある人生でありますように、生かされていることの幸いを豊かに味わうことが出来ますようにと。
この時、改めて地に種を蒔き収穫を期待するように、神様の恵みを期待する事も同じであることを知ります。
『神の国はある人が地に種を蒔くようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育っていくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない』(マルコ4-27)とあります。すなわち、神様の恵みの働き、その内容について人は必ずしも分からない。見ないということです。全く意識や理解を超えた内容にて働き、ある時それが明らかにされるのです。この中にあって私たちに期待されております事は、『主の来臨のときまで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後ろの雨とがあるまで、耐え忍んで待っている』(ヤコブ5-7)の御言葉のように、豊かな収穫を成し遂げてくださいます主を耐え忍んで待ち望んでいく事であります。
その途上にあって、あたかも、これが収穫、結果であるかのように受け止めて、判断してしまう事が最も収穫の御心に反する行為であります。それは自分の事、他者の事、周りの事柄についてです。
「委ねつつ」「祈りつつ」そして置かれている所にて「働きつつ」収穫の時を耐え忍ぶ事です。神様は必ず豊かな収穫を備えて下さっております。
2007年8月号