私の転機(その2)
古川信一牧師
どんなに自分でがんばって、懸命に磨こうとしてみたところで、どこまでいってもやはり欠けだらけで見栄えも冴えず、ごつごつしていて感触も粗く、少しの衝撃でもすぐに壊れてしまうような、脆くてたいした価値もない土の器でしかないのだということが、その瞬間、心の深いところで、頷きをもって受け止めることができたのです。
でもそんな「土の器」にも、ただ一つ、誇れることがある。それは、内側に「宝」を持っているということです。
人は器の外側を問題にします。しかし、神は器の内側を見られるのであって、器の中身こそが、神の前に問われているのだと知らされました。イエス・キリストの福音という「宝」が内側に与えられている。イエスがこんな私に信仰を与え、内側におられるではないか…。そう気づかされたのです。私のような脆くて醜い土の器の中に、福音という宝が輝いている。イエスの愛といのちの光が、まばゆいほどに輝きを放っている。そのことに心の目が開かれたとき、ありのままの自分を素直に受け入れることができました。
同時に、宝を持っているがゆえに、こんな自分もまた神の前に尊い存在であると受け止めることができたことによって、心に平安が与えられ、今まで失敗だと思ってきた自分の過去を受け入れることができたのです。
その経験以来、あれほど心を支配していた挫折感、焦燥感、空虚感がしだいに取り除かれていき、それまで自分の生き方を動機づけてきた「人によく見られたい」という思いから、「神さまに喜ばれる生き方をしたい」という思いへと変えられていきました。この経験が後に、私を献身へと導いていく第一歩になり、その意味で「私の転機」であったと受け止めています。
茂原教会に遣わされて、改めて今自分が神さまの働きへと導かれたその原点を深く見つめなおしながら、内に頂いている宝であるイエス・キリストとその福音のすばらしさを、もっと深く知らされながら、宝を輝かせていくものでありたいと願っています。
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものないことが、あらわれるためである。」(コリント第Ⅱの手紙 4章7節)
2008年8月号