見つけた喜び

古川信一牧師

 ある月曜日、いつものように神奈川の実家へ行き、僅かなときを母と過ごし、茂原へ帰ろうというときに、それは起こりました。車の鍵が見つからないのです。

 来るときに運転した妻が、ポケットの中や、かばんの中を調べるのですが、出てきません。とうとうかばんの中を全部ひっくりかえし、本格的に捜し始めました。そして再び家に戻って、この日の行動を思い起こしつつ、一つ一つ思い当たるところを辿っていきました。母も心配して一緒に探してくれました。

 私も自分のかばんの中を見たり、ポケットや車のシート、周辺の地面を注意深く捜しました。すでに30分ぐらい経ったでしょうか。「どういうことだろう。このことに何の意味があるんだろうね」。私たちは首をひねるばかりでした。

 残された心当たりは一つ。庭の草を生ごみ処理のタンクに入れたときに、鍵も一緒に捨てた可能性です。「もういいよ。しょうがないよ」。私はそう言いながら、何かイライラして、妻を責める思いが膨らんでくるのを抑えられませんでした。でも、もしここで捜せなければ、多分出てこないだろうと感じていましたので、とてもためらいがありましたが、やるだけのことはやろうと、二人で生ごみのタンクの中を、おそるおそる木の棒で掻き分けてみましたが、うまくいきません。やっぱり手で捜せということなのか。こうなったらやるしかありません。二人して覚悟を決め、ついにごみの中に手を入れました。そこまでしても、結局鍵を見つけることはできませんでした。

 とりあえず、合鍵はあるので、車は動かせるのですが、なくしたのが、普段私が持っていて、離れたところから開閉操作ができるマスターキーであったために、私にはあきらめきれない、すごく残念な気持ちを拭うことはできず、とても後味の悪い思いで帰路につきました。

 それから10日後のことでした。鍵のことほとんどあきらめていました。私が自分のかばんの中を調べていたとき、内ポケットでジャランという音がしたのです。見たら、何とあのなくした車の鍵ではありませんか。「ああ、あった。見つかった!」。ほんとうに嬉しくて、すぐに妻に報告しました。そして一方的に責めたことを謝り、一緒に喜び合いました。

 失くして、もうあきらめていたものを見つけることは、こんなに嬉しいことなのかと改めて深く感じた出来事でした。

わたしと一緒に喜んでください。

       いなくなった羊を見つけましたから

– ルカによる福音書15章5節 –

2009年6月号