喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣きなさい

古川信一牧師

 これは新しい年に茂原キリスト教会のテーマとして与えられたローマ人への手紙12章15節のお言葉です。

 ある方はこう言っています。「これは誰もが欲していることだ。そして誰もがお互いにしてあげるのが一番難しいことだ」。

 もしお互いにこのように生きられたら、私たちの人生は一変するのではないでしょうか。共に喜び、共に泣けたらどんなにすばらしいだろうか、そう願いながら、実際には身近な人間関係においてさえ、そう生きることがとても困難であることも私たちは身にしみて知らされているのです。

 お互いの間に、ここで語られている共に喜び共に泣くという関係が築き上げられていくカギはどこにあるのでしょうか。

 このことは「愛」という文脈の中に見いだすことができます。また、それはこの前のところで語られているキリストのからだとしての教会ということと深く関わっているのです。からだにはいろいろな働きをする部分があるように、教会に集められているお互いは、それぞれみな違う働きをしており、どんな人にもそれぞれに恵みの賜物が与えられていることが指摘されています。

 そのすべての働きや賜物を根底において支えるものこそ愛なのだということです。どんな賜物や働きにもまさる、最高にして最大の賜物は愛であり、その愛こそが違っている者同士が集められたお互いを信仰の共同体として一つに結び合わせる鍵であるとパウロは言いたいのではないでしょうか。

「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬しあいなさい」とは、キリスト者相互の愛のことを指していますが、その愛は「愛には偽りがあってはならない。」と語られる中で意味される神の愛に土台を置くところから、生まれてくる愛に他なりません。

 教会に属するとは、自分の意思で連なっているというよりも、神が一人ひとりを同じ教会に選んだということなのです。私たちはキリストのからだとしての教会に、それぞれがかけがえのない働きを担うものとして、神のみこころとご計画のゆえに、一つにされているお互いであるから、互いを必要としているということです。そのような共同体としての深い自覚のあるところに互いの愛が生まれてこないでしょうか。

 神の愛とへりくだりはイエス・キリストの十字架に鮮やかに示されています。その神の真実な愛を土台とした相互の愛に生きるということの具体的な姿として、共に喜び、共に泣くという生き方がここで示されていると考えることができます。

 互いに異なる働きを認め合い、賜物を発見し合い、尊敬とへりくだりをもった信実な愛を神から日々新たにいただいて、共に喜び、共に泣く恵みにあずかるなら、それはお互いの関係を変え、共同体を変えないはずはありません。

– 元旦礼拝説教より –

2010/01月号