人が家を手離すとき

          古川信一牧師

 昨年末、「家」について、深く考えさせられるある映画を見ました。

 ストーリーは、妻を亡くした主人公の78歳のおじいさんが、家の立ち退きを迫られたのを機に、亡き妻との約束を果たすために、たくさんの風船をつけた空飛ぶ家で冒険の旅に出るというもので、3D技術が駆使されたアニメーション映画としても、大きな反響を呼んでいる作品なのだそうです。

 冒険家にあこがれていた若き日に、その家で妻と出会い、結婚し、同じ夢を追いかけ、共に生き、年をとり、そしてひとりになってしまった主人公にとって、その家は亡き妻との思い出がぎっしりつまった、かけがえのないものでした。

 それは、他人に指一本触れられたくないほど大切なものであり、かたくななまでに守りたいものでしたが、そんな主人公のおじいさんは冒険の途中で、ひとりの少年と道連れになり、しだいに絆を深めていく中で、その少年の危機を救おうというときに至って、とうとうその家の中の思い出のつまった大切な家財道具を捨て始めるのです。そして最後には大切な家を失ってしまうのですが、そのとき彼は言うのです。「いいさ、ただの家だ」。

どこまでも家にこだわっていた主人公が最後に、そう言ったのです。 

 最愛の妻との思い出の家を、絶対失いたくないと思っていた主人公が、それを手離すことをよしとしたのは、彼が本当に大切なもの、守らねばならないものは、建物としての家ではなく、過去の思い出にいつまでも捉えられたままの自分でもなく、今傍らで共に歩いてくれる大切な仲間、共に生きる愛する家族であることに気がついたからではなかったかと、思わせられました。

 昨年、天に送った神奈川の父を、最後は何とかして家に帰してあげたかったという思いが、実の娘として妻には強くあったことを私は知っていました。

 でもあるとき、彼女は、父が亡くなる前の病室で、妹と何気ない会話をしているときに、父の安心した様子を見て、父がここが家だと思っている、自分は家にいると思っているのではないかと感じたといいます。どうにか家に帰したいと思っていたけれど、それは自分のこだわりであって、家族のいるここが「家」なのだということかもしれない、と話してくれたことは今も心に深く残っています。

「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」。

– ヨハネによる福音書14章2節 –

2010年2月号