古川信一牧師

 今、私の右手の包帯の下には、針金が突き出しています。約1ヶ月前に、自転車で転倒して、小指を骨折し、2本の針金を入れる手術を受けました。

 このけがによって、何人もの方々から、自分もかつて、手を傷めたことがあるというお話し聞かされました。そこに何か不思議な、通じ合うような空気が感じられました。骨折をしなければ、そのようなお話を聞くこともなかったかもしれません。自分からはあまり話したくないような経験を、その方たちにあえて語らせたのは、「傷」という共通の痛みであったと言うことができます。

 イザヤは、こう語っています。

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」

(イザヤ書53:5)。

 ここから知らされることは、傷が傷をいやすということです。ここで語られている「彼」とは、イエス・キリストを指し示すと、理解されており、この預言から約700年の時を隔ててイエスは歴史の中に誕生され、十字架に架かり、復活されました。

 そして、弟子たちにご自身を示された時のことが、こう記されています。

『彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。』

(ヨハネ20:19~20)。

 復活されたイエスが、恐れ、失望し、傷ついた弟子たちのところへ来て、十字架の傷跡を見せた時、そこに喜びといやしが起こったのです。

 私たちは、生きていく中で、思いがけずに身体にも、心にも「傷」を負ってしまうことがあります。そんな時、なんでこんなことになってしまったのだろうかと、嘆いたり悔やんだりし、こんな傷はなくしたいと願って、傷跡が残らないよう、できる限りの力を尽くすでしょう。

 しかしもし、自分が傷を負ったことによって、同じような傷を負っている人の痛みが幾分かでもわかるということがあるとすれば、私のこの傷もまた、決して無駄ではなかったということにならないでしょうか。そうであれば、私たちの傷は、誰かの励ましや、いやしにつながっているのかもしれません。

 イエス・キリストの十字架の傷とその痛みは、私たちを深いところで苦しめている決定的な傷をいやすためでした。それゆえ、私たちのあらゆる「傷」もまた、いつの日かきっと、イエスの十字架の傷によって、一つ一つ「恵みのしるし」に変えられるのではないでしょうか。

2010年10月号