主イエスから目を離さないで
安井 光牧師
信仰の導き手であり、またその完成者である
イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」
– ヘブル12章2節 –
新しい年を迎えました。上記の御言葉は、私たちがこの一年、いつも心に留めておくべき御言葉ではないかと思います。与えられた人生の道程を走り抜くために、主から目を離さないこと、主イエスを仰ぎ見ることが必要ではないでしょうか。
ヘブル書の記者は、人生の道程を「競走(マラソン)」に例え、私たちをその道程を走るランナーになぞらえています。すなわち、私たちは人生の道程をマラソンランナーの如くに走っているというのです。
マラソンには多くの戦いがあり、またドラマがあります。ランナーは、長い道程を沿道の人々の声援を受けながら、しかしひとり孤独にひたすらゴールを目指して走らなくてはなりません。
私たちがいま走っている人生の道程には、山があり、谷があります。障害物、ハプニングもあります。コースを変更しなければならないこともあります。しかしどんなことがあっても、途中で棄権することなく、「耐え忍んで」走り抜かなくてはなりません。
「多くの証人」が私たちを取り囲んで声援を送ってくれています。彼らは、既に人生の道程(信仰生涯)を走り終えてゴールに至った聖徒たち、信仰の先輩たちです。彼らは、罪を犯した時、弱さを覚えた時、試練に遭った時、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ」走ったのです。
私たちは何を見て、この一年歩むのでしょう。何に目を向けて、与えられた生涯を走るのでしょう。それは、イエス・キリストです。主イエスは私たちの人生の導き手であり、信仰の導き手であり、またその完成者です。私たちは、ひたすら主イエスを仰ぎ見つつ、人生の道程を走っていけばよいのです。
主イエスは、盲目のランナーと共に走る伴走者のように、私たちと共に走って下さる(歩いて下さる)お方です。走れなくなる時、立ち止まってしまう時、一歩も進めなくなってしまう時も、私たちと足取りを合わせ、私たちを力づけゴールまで導いて下さるのです。
主イエスご自身、人生の道程を走り抜かれた完走者です。主イエスはその道程を「自分の前におかれている喜び(私たち罪人が罪の滅びより救われること)のゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」、走り抜かれました。
私たちにとって、「前におかれている喜び」とは何でしょう? それは朽ちるものではなく、永遠に続く喜びではないでしょうか(Ⅱコリント4:18)。この喜びが前にあり、主が共に走って下さるので、どんなことがあっても失望しないで前に進むことができるのです。
この年も、主イエスから目を離さないで、主イエスを仰ぎ見つつ、一歩一歩進んでまいりましょう。
– 元旦礼拝の説教より –
2013年1月号