誇りと報酬
コリントの信徒への手紙一 九章十五~十八節
野田信行牧師
「では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときに無償でそれを提供し、宣教者としての私の権利を用いないということです」。
(コリント人への第一の手紙第九章十八節)
パウロは文章の主語をこれまでの「私たち」(複数形)から「私」(単数形)に変え、自分一人の特別な内容として、使徒として報酬を受ける権利を一つも用いませんでした。それはパウロの誇りであり、誰も奪うことができません。
パウロは福音を告げ知らせる宣教者ですが、福音を告げ知らせても、それは誇りにはなりません。パウロが義務もないのに自発的に福音を告げ知らせることを選択したのなら報酬を受けます。しかしパウロが福音を告げ知らせるのは自分から選択したことではなく、ダマスコに行く途中で主イエスに出会って強制されたことです(使徒言行録九章)。
パウロにとってそれは選択ではなくて義務であり、強いられたことで、委ねられた務めで、そうせずにはいられないことです。それは奴隷的な労働であり、奴隷は働いても報酬を得ず、福音を告げ知らせないならパウロは災いです。委ねられた務めを果たさないなら災いであるというのは、専業の宣教者だけではなく、全ての人に向けられた御言です。そしてそのために必要な賜物は主から与えられるので(七:七)、ただお委ねするのみです。
委ねられた務めを行うパウロの報酬は、福音を宣べ伝えるときに無償で提供することです。パウロにとって、自分にある権利を用いないことが誇りであり報酬です。多くの親は自分の子どもに対して全てを無償で提供し報酬を受ける権利を用いませんが、それはまた誇りでもあります。自分の親に自分がその様にして貰ったので、自分も子どもに対してそうするのでしょう。
主イエスはご自身の十字架を中心とした福音を無償で提供してくださいますが、それはプライスレス(値段が付けられない程に貴重)だからです。プライスレスなものは、値段が付けられないので無償にならざるを得ないのかもしれません。パウロは無償で受けた福音を無償で提供します。
主イエスはご自分の命の代価によって私たちの罪を赦し、救いを無償で提供し何の権利も用いられませんでした。主イエスに従う使徒パウロも福音を無償で提供し何の権利も用いませんでした。パウロは聖霊の働きによる自分の生き方を通して、コリント教会が偶像へ献げた肉を食べる権利に拘って、良心が弱い人をつまずかせないようにと願っています。パウロはこの後のコリントへの信徒の手紙二では、あなたがたが私の誇りと言っています。
パウロに取っては福音によって救われる人が誇りであり報酬です。私たちもパウロに働いた同じ聖霊の力を受けて、自分の権利に拘るのではなくて、人をつまずかせないために、権利を用いない権利を持つ者として歩ませて頂きましょう。