神の栄光をあらわす

コリント人への第一の手紙 第六章十二~二〇節
          野田信行牧師

「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。
(コリント人への第一の手紙第六章二〇節)

パウロは、「すべてのことは、わたしに許されている」(自由)と2回繰り返し強調します。コリント教会は、霊とからだを切り離して二元論的に考えるグノーシス主義の影響を受けて、霊は永遠に続く大切なものですが、からだ(肉体)はこの世の悪いものと考えていました。そして霊的に救われたクリスチャンは、この世の物であるからだは不品行を行っても関係はないと考えました。

しかし洗礼を受けるクリスチャンはキリストをかしらとする一つのからだに組み入れられるキリストの肢体です。そして性的関係を持つことは、「ふたりの者は一体となる」(創世記二:二四)ことで、遊女につく者は①自分が遊女と一体になり、②キリストの肢体である自分が遊女につくことは、キリストの肢体と遊女の肢体とを一体化させることであり、どちらも断じていけないことです。 さらに、主につく者は、主と一つの霊になるのであり、クリスチャンは心身共にキリストと一体になり、同じように遊女につく者は遊女と心身共に一つになります。

クリスチャンのからだは、もはや自分自身のものではありません。普通、所有者は製作者か購買者になりますが、神は人を造られた創造者であり、十字架の代価を払って買いとられた購買者でもありますので、人は二重の意味で神のものです。私たちは神に買い取られ、「神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされた」(十一節)聖霊の宮です。

それに相応しい生き方は、自分のからだをもって、神の栄光をあらわすことであり、それは五章からの文脈から言って不品行をしないことです。もっと積極的には品行方正に生きることです。それは先週の九節にもありましたが、不品行は真の神を神とせずに、神の御言に従わない偶像礼拝から起こって来るからです。

旧約聖書で姦淫というと男女の関係を意味することもありますが、真の神を捨てて異教の神を拝む意味に多く使われます。つまり不品行というのは不信仰の現れです。不品行自体も大きな問題ですが、根本的な問題はその元となっている不信仰です。ですから信仰が正しく、信仰方正であれば、品行方正となり神の栄光をあらわすことになります。そのためにはどの様にしたら良いのでしょうか。難しいことは何もありません。信じる者には聖霊が宿ってくださいますので、ただその導きに従うだけです。聖霊の内住の恵みに感謝して歩ませて頂きましょう。

2020/07/05