兄弟をつまずかせない
コリント人への第一の手紙 第八章七~十三節
野田信行牧師
「もし、食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」。
(コリント人への第一の手紙第八章十三節)
「この知識」(七節)とは、「偶像は実際は世に存在せず、唯一の神のほかには神がないこと」(四節)であり、コリント教会員は「わたしたちはみな(その)知識を持っている」(一節)と考えますが、パウロは、「この知識をすべての人が持っているのではない」と言います。「この知識」を持っている人は、偶像は実際は存在しないのだから、偶像への供え物の肉を食べても何の問題もないと考えます。
しかし「良心が弱い」と言われる、偶像への供え物について、はっきりとした知識や意見をまだ持てていない人は、知識がある人が偶像の宮で供え物を食べているのを見て、教育されて供え物を食べるようになるかも知れません。しかし、良心の弱い人は、偶像への供え物として、偶像の神の霊が宿った物として肉を食べますので、これによって偶像の神の影響を受けるようになるのでは、また自分は罪を犯しているのではと考えます。悪い事をしているとの思いから良心が汚されて行き、滅びに至るかも知れません。
すべての生きものを神がきよめた(使徒十:十五)ので、クリスチャンは何でも自由に食べる権利が
ありますが、自由にはいつも周りに与える影響を考える責任と役割が求められ、弱い者をつまずかせない必要があります。正しいと思う「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(一節)のです。
キリストの十字架の死は全ての人の罪の赦しのためであり、良心の弱い兄弟のためでもあります。兄弟をつまずかせるなら、それは罪を犯すことであり(マタイ十八:六)、キリストに対して罪を犯すことです(マタイ二五:四〇)。
そしてパウロは、「だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」と言います。パウロにとって食物よりも、人々の救い、またつまずかせる事の方が大きな事です。ここでパウロは、「わたしは」と自分の事として言っていますが、それはクリスチャンは皆同じ思いであって欲しいとの願いです。
パウロにとっては自分の救いがとても大きい事だったので、それは他の人にとっても同じ様に大切な事だと考えるからです。キリストが十字架で命を懸けて救おうとされた方々を、私たちも聖霊の導きの中でキリストと同じ思いを持って救いに導かせて頂きましょう。そして誰もつまずくことなく皆で揃って天国に行ける様に歩ませて頂きましょう。