知識と弱い良心

コリント人への第一の手紙 第八章七~十三節
  野田信行牧師

「しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである」。
(コリント人への第一の手紙第八章七節)

八章全体の内容は、「偶像への供え物を食べることについて」(四節)で、「偶像は実際は世に存在せず、唯一の神のほかには神がないことを、知っている」ので、「この知識」によると、偶像への供え物の肉を食べても問題はありません。「しかし、この知識をすべての人が持っているのではない」(七節)ので、良心が弱い(はっきりとした知識や意見をまだ持てていない)人は、偶像の霊が宿る物として食べるために良心が汚されるので、良心の弱い人達のつまずきにならない様にする必要があります。

少し前迄のキリスト教は、日本の伝統的な宗教である神道や仏教等に対して強い拒否反応がありましたが、それはここで言う、良心の弱い考え方によるもので、「この知識」に基づくものではありません。

これは歴史的経緯として、進化論や共産主義により人間の理性が強調されて、十九世紀に存続の危機に陥ったキリスト教の中に、対抗するために原理主義的なリバイバル運動が起こって、進化論や共産主義、他の宗教等も徹底的に否定した影響を日本のキリスト教は強く受けています。良心が弱いのは、信仰の確信がない事であり、神は唯一である、という確信があれば、敢えて他の宗教を否定する必要はありません。

「唯一の神のほかには神がないこと」を確信する者は、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(へブル十二:二)と考えます。これは私たちが仰ぎ見つつ、目に止めるのは、信仰の導き手であり、またその完成者である主イエスだけということです。例えそこに偶像があったとしても全く関係はありません。その様な物があったとしても仰ぎ見ませんし、気にする必要もありません。

私たちは弱い良心の人たちを受け入れて配慮をしつつも、弱い良心のままで満足するのでなく、聖書の教える正しい知識に基づいた健全な信仰へと成長して行くことが求められています。そうでないと自分自身にも、平安や喜びが得られませんし、他の人にも喜びを持って伝える事が出来ません。

私たちが正しい知識に基づいた健全な信仰へと進んで行く導きは、聖霊が与えてくださいます。私たちは自分達が過去にこの様に歩んで来たので、盲目的に全てそれで良いとするのではなくて、聖霊の導きの中で、これは本当に聖書の知識に基づくことであるのか、それとも弱い良心に基づくことであるのかを、一つ一つきちんと吟味をして行く必要があります。そして弱い良心に基づく考えから、聖書の知識に基づく考えへと進んで行く中で、私たちの心は平和と喜びに満たされ、信仰も成長して行くものです。