十分な神の恵み

コリント人への第二の手紙 第十二章一~十節 
野田信行牧師

「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。
(コリント人への第二の手紙第十二章九節)

コリント教会には人をだます、にせ使徒がいて(十一:十三)、主の啓示の体験話をしていた様です。パウロはコリント教会を守るために、自分の啓示体験を話しますが、必要以上に人に買いかぶられない様に、あるひとりの人の話と第三者の様な言い方をします。

十四年前に第三の天であるパラダイスに引き上げられましたが、それは①様々な苦難を経験する(十一:二四~二七)パウロに信仰の確信を与えるため、②聖書に含まれる記事として、この様な出来事もあることが書かれるため、に必要だったと思われます。

パウロはすぐれた啓示を受けたために高慢にならないように、肉体に一つのとげが与えられました。
ここを霊的に読むと、肉体は生まれながらの事で、とげはそこに刺さる物ですので、とげはそれぞれ自分に与えられた十字架と言えます。とげはサタンの使であり、パウロは離れ去らせて下さるようにと三度主に祈りました。

ところが主の答えは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力(恵み)は弱いところに完全にあらわれる」です。人間の力が強いと神の力があらわれる余地がありませんが、人間の力の弱いところに神の力(恵み)は完全にあらわれます。

私たちは怠けてはいけませんので、祈りの中で自分に賜った分に応じた働きはしますが、それを越えたところには、神の力があらわれます。パウロも、ガラテヤに福音を伝えたのは、伝道旅行の途中で病気になって肉体が弱ったためでした(ガラテヤ四:十三)。 

とげは真珠作りの核に例えられます。ここでいうとげの様な異物の核を真珠貝に入れられると、その異物を覆うために分泌物が出て美しい真珠が出来ますが、分泌物はキリストの力と言えます。私たちは普通なら、弱さ、侮辱、危機、迫害、行き詰まりは避けたいものです。しかしキリストのために、この五つの事に直面するなら、キリストの力が宿って、キリストの力があらわれます。私たち人間が弱い時に、キリストの力が宿って、キリストの力があらわれますので、結果的には人間が強い時よりも、弱い時にこそ、その人は強くなります。それは私たちの人生において、キリストの真珠を作る事です。美しい真珠を買うのも良いですが、自分の人生で真珠を作ってみませんか。そして皆さんの作られる真珠で茂原教会を飾らせて頂きましょう。