試練の逃れ道

2020年10月25日
コリントの信徒への手紙一10章1~13節

主の御名を賛美します。10月31日が近付いてまいりますとマスコミ等世間ではハロウィンが話題となります。しかし私たちプロテスタント教会にとってはプロテスタント教会の生まれた宗教改革記念日であって聖書のみの信仰に立つ記念日で、ハロウィンとは真逆の日です。そして10月31日の直前の日曜日の礼拝が宗教改革祈念礼拝で今日ですので、ハロウィンに惑わされないようにしましょう。

1、イスラエルによる警告

パウロは先週の箇所で、宣教者またクリスチャンとして失格者とならないで朽ちない冠を受けるために、偶像に献げた肉を食べない節制をすることを話しました。今日は初めの所で、節制をしないために失格者となった例を聖書から挙げます。

パウロ神学という言葉を聞いたことのある方もいると思いますが、これはパウロが何か新しい神学を自分で考えて造ったのではなくて、教会学校の子どもも知っているような聖書の有名な出来事の意味を神学的に整理したものです。パリサイ派としての経験が用いられています。初めに「ぜひ知っておいてほしい」というのは、とても大切なことを伝える時に言う言葉です。

「私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼を受けた」と言います。これは出エジプト記14:21でエジプトを脱出したイスラエルが紅海を渡った有名な出来事です。雲は荒れ野でイスラエルの人々が進む方向を導いたように神がそこにおられる臨在を現します。

洗礼について主イエスはヨハネ3:5で、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。その意味で、罪の象徴であるエジプトを脱出して、霊である神のおられる雲の中で紅海を渡ったのはイスラエルの皆の洗礼だったということです。

現代の洗礼はローマ6:3等で主イエスに従うという意味で主イエスにあずかる洗礼と言われますので、イスラエルは指導者であるモーセに従うという意味でモーセにあずかる洗礼と言っています。ここでパウロがコリント教会のギリシャ人に対して、イスラエルを私たちの先祖と呼ぶのは、神の祝福の契約を引き継ぐ霊的なイスラエルは現在はクリスチャンであるからです。

さらにイスラエルの人々は皆、紅海を渡って洗礼を受けた後に、荒れ野で神から与えられたマナを食べました。マナは超自然的に神から与えられて、信仰によって受け取る食物ですので霊の食物と呼びます。またイスラエルは自分たちに付いて来てくださった霊である神の岩から、出エジプト記17:6のメリバ等でモーセが杖で岩を打って水を飲みました。これも有名な出来事です

この水も信仰によって神から与えられたものですので霊の飲み物と呼びます。そして霊の飲み物である命の水はキリストから流れ出ますので、この岩は実はキリストだったと言います。神こそわが岩です。そしてイスラエルが霊の食物を食べて、霊の飲み物を飲んだというのは、それは現代でいう聖餐式だったということです。プロテスタントの礼典はここにかれている洗礼と聖餐だけです。イスラエルの人々は現代のクリスチャンと同じにように洗礼を受けて聖餐式を行いました。しかしその結果はどのようになったでしょうか。

しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。ヨシュアとカレブと民数記14章でカナンの地に行くことを反対した時に二十歳未満の人以外は皆滅ぼされました。これらのことは歴史的な事実ですが、私たちに対する警告として起こりました。

11節でも繰り返されています。歴史を知らない人は、過去の歴史にあったことと同じ過ちを繰り返すと言われます。イスラエルの過ちは私たちに対する警告として起こって、戒めのために旧約聖書に書かれていますので、良く読んで学ぶ必要があります。しかし私たちのための警告として起こったのであれば、イスラエルの人たちは何か可哀そうではないかとの考えもあります。

しかしそれは全知全能なる神の考えられることであって、不完全な人間が不完全な知識であれこれと考えて神を非難して、さばく権利はありません。イスラエルの例はどのような警告かというと、「彼らが貪ったように、私たちが悪を貪る者とならないためです」。イスラエルの過ちは貪りです。私たちの求められている節制の反対は貪りです。

2、貪り

イスラエルが実際に貪った4つの例が旧約聖書から挙げられています。一つ目は偶像礼拝です。ローマの信徒への手紙1章にあったように、不信仰の始まりは偶像礼拝からです。「民は、座っては食べて飲み、立っては戯れた」は出エジプト記32:6の御言で、モーセがシナイ山で十戒を授かっている時に、モーセのお兄さんのアロンが主導して金の子牛の像を造った時のことです。

パウロが、ここで子牛の像を造ったことや子牛の像への礼拝の問題ではなくて、飲み食いのことを問題にしているのは、今のテーマが8:4の、「偶像へ献げた肉を食べることについて」だからです。「立って戯れた」とは踊ったことです。つまりパウロが言おうとしているのは、異教の祭りで、飲み食いしたり踊ることは偶像礼拝だということです。

私たちもハロウィンで偶像礼拝をするようなことのないようにしたいものです。既に召された先生ですが亀有教会の高木輝夫牧師は、「座っては祈り、立っては奉仕」と言っていたそうですが、そのようにありたいものです。二つ目の例は淫らな行いです。これもローマの信徒への手紙1章にあった通りの順番です。

偶像礼拝の恐ろしさはそれが偶像礼拝だけに留まらないで、次の段階の不品行に続いて行くことです。「淫らな行いに及んだために、一日で二万三千人が死にました」は民数記25章の御言で、イスラエルがモアブの娘たちと淫らな行いや食事を共にしたために死んだことです。

三つ目の例は、キリストである神を試みることです。「試みた者は、蛇に滅ぼされました」は民数記21章の御言です。イスラエルはマナを与えられて初めは喜んで食べましたが、それが続くと、この粗末な食物は嫌になったと、神の与えた霊の食物を非難しました。そこで主は炎の蛇を送られて、蛇にかまれた多くの者が死にました。神を試みるとは、既に与えられている神の恵みに不満を抱いて、より多くを求めて貪ろうとすることです。

霊の飲み物を出した岩がキリストであったように、イスラエルが試みた主なる神は先在のキリストであったということです。食べ物のことでキリストを試みて死ぬ者がありました。

四つ目の例は不平です。「不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」。「不平を言う」は出エジプト記や民数記に繰返し出て来た言葉です。イスラエルは神の恵みの賜物であるマナであるとか、神が立てた秩序であるリーダーのモーセに対して感謝するのではなくて、不平を言ってばかりいました。感謝をせずに不平を言うことも貪ることです。

貪る例として、偶像礼拝、淫らな行い、キリストへの試み、不平と4つの実例が旧約聖書から上げられました。そして、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と言います。「立っていると思う者」というのは、もう終わりの日のさばきに立ってゴールしたかのように思っている者のことです。コリント教会員の中にはそのように考えている人たちがいました。しかしまだ途中でゴールは先なので、途中で倒れて失格者にならないように気をつけなさいということです。しかし果たして気をつけなさいで済むことなのでしょうか。

3、世の常である試練

「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません」ということは、これら4つの貪る試みの試練は世の常であって、いつの時代、どこの地域でもあるということです。実際コリント教会の中にもありました。

偶像礼拝は次の段落にあって、淫らな行いは5章にあって、キリストへの試みは教会はキリストを頭とする一つの身体ですが1章で争って分かれていること、不平は9章でパウロが使徒であることへの不平等です。確かにこれらの貪ることは、現代においても教会に限らずに世の常で、社会の色々なところで目にすることです。

しかし貪る試みの試練が世の常であるならば、「はい、実例を挙げて警告しました、これが戒めだから気をつけなさい」と言っただけで、それを聞いた人は貪る試みの試練に打ち勝つことが出来るのでしょうか。旧約聖書は数千年前に書かれていますが、パウロのこの手紙は約2千年前に書かれました。

この手紙を読んだ人たちは警告と戒めを受け取ってどうなったのでしょうか。そのことに悩んでいたのが、約5百年前のマルティン・ルターです。ルターは司祭として一所懸命に節制をしていましたが、どう考えても自分が神の前に正しいとは思えないで、苦しんでいました。それ程に神の警告と戒めは高いものです。

神の警告と戒めを走高跳に譬えると、走高跳の現在の世界記録は2m45cmです。そこまでは無理としても、例えば走高跳で1mを飛べたら天国に入れるとしたら、ある程度練習すれば結構な人が天国に入れると思います。しかし天国に入るための走高跳の条件は3mだとしたらどうでしょうか。

条件は3mとはっきりと伝えたから気をつけなさい、と言われてもどうしようもありません。実際、神の警告と戒めは走高跳3mのような誰もクリアーすることの出来ないような高いハードルです。

4、神は真実な方

そのような状況を人間に放置していたら神はどのようなお方なのだろうかという問題になってしまいます。しかし神は真実な方です。どういう意味で真実かというと二つの意味です。一つ目は、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさ」りません。一人一人を全てご存じの全知全能の神は、その人の状況に応じて耐えられない試練には遭わせられません。二つ目は、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れ道をも備えてくださいます。ある人は耐えられないような試練に遭っていると思う人は、この二つ目の逃れる道を聞こうとしない人、また気付いていない人です。

では逃れる道とはどんな道なのでしょうか。主イエスがヨハネ14:6で、「私は道である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と言われたように、逃れる道は主イエスご自身です。神の警告と戒めである律法は人間の力ではクリアーすることが出来ないことを気付かせて、キリストに導く養育係です。

しかしなぜ主イエスが貪る試みの試練の逃れる道なのでしょうか。それは主イエスはマタイによる福音書4章で貪る試みの試練に勝利されたからです。主イエスは四十日四十夜の断食後の空腹のときに、「石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔に言われても、食べ物のことで不平を言われませんでした。

そうではなく、「人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と御言で答えられ不平に打ち勝ちました。また「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と言われても、「あなたの神である主を試してはならない」と答えて神への試みにも打ち勝ちました。

また世のすべての国々と栄華を見せて、もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えようと言われても、「退け、サタン。あなたの神である主を拝みただ主に仕えよ」と言われて偶像礼拝にも打ち勝ちました。主イエスは世の常である貪る試みの試練を経験されて、その試練がどのようなものか良くご存じです。

その主イエスの霊である聖霊を助け手として私たちに与えてくださいます。そして聖霊に満たされて導きに従う道は主イエスという逃れる道です。主イエスの道を歩む時に、私たちは警告と戒めを成就する者へと変えられます。神の力によって3mの走高跳を飛ぶ者とされます。

5百年前に自分の正しさに確信の持てなかったルターは、律法を破ってしまう私たちの罪は主イエスが十字架で既に身代わりとなって引き受けられて赦されている、そして律法を成就した主イエスを信じる信仰によって救われる確信を得て心の平安を得ました。私たちも試練の逃れる道である主イエスを信じて、主イエスの道を歩ませて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。聖書にはイスラエルを始めとして多くの人の過ちが書かれています。そしてそれらは世の終わりに臨んでいる私たちへの警告と戒めであると言われます。しかし私たちは自分の力では、貪る試みの試練の警告や戒めを守ることが出来ません。

しかし神の真実によって、御子キリストの逃れ道を備えてくださり有難うございます。私たちがいつも聖霊の導きによって主イエスの道を歩み続けることが出来ますようにお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。