冠を受けるための節制

2020年10月18日説教
コリントの信徒への手紙一9章24~27節

主の御名を賛美します。今日は普段は子ども礼拝に来ている子どもたちの多くは運動会のようです。日本では少し前に、変な平等意識によってか、運動会での走る競技等で個人の順位付けするのは良くないという考えがありました。そして、ゴールの前で皆で揃ってから手を繋いでゴールする「手繋ぎゴール」等という言葉も出来ました。実際にそのようなことをすることは余りないようですが。個人の順位付けをする競技は少なくなったようです。色々な考えはあると思いますが、その様なことを考えつつ今日の御言を聴かせて頂きましょう。

1、賞を受けるように走る

パウロは福音にあずかる者となるために自分の権利を用いないですべてのことをしています。福音は「良い知らせ」の意味で、ギリシャ語ではユーアンゲリオンと言います。アニメのエバンゲリオンの元になった言葉ですが、「ユー」は「良い」という意味で、「アンゲロス」はエンジェルの元の言葉で使者、天使です。

ですからユーアンゲリオン、福音は良い使者という意味です。福音の元の意味は、戦争等の戦いの勝利を知らせる使者に与えられた報酬でした。それが主イエスの十字架の死からの復活による、罪や死に対する勝利の良い知らせとなりました。

この勝利の良い知らせは、福音の元の意味の様に、福音を受け取った者が良い使者として、良い知らせを走って伝える必要があります。そこでパウロは、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちは、皆走っても、賞を受けるのは一人だけです」と言います。賞を受けるのは一人でしょう。

このパウロの言葉を現代の日本の若い人たちが聞いたらどの様に感じるのでしょうか。パウロはなぜこのような話を持ち出したのでしょうか。東京オリンピックは取敢えず来年に延期になりましたが、コリントはギリシャの都市で、オリンピックの開催地であるオリンピアが同じペロポネソス半島にありました。

またコリントの郊外のイストモスではオリンピックを含むギリシャの4大競技大祭の一つであるイストモス大祭が行われていました。イストモス大祭は二年に一度行われていて、パウロは前にコリントに行った時に一年半滞在していますので、イストモス大祭を見ていたのかも知れません。

パウロはコリントの街の文化ともなっているオリンピックの精神を良く知っています。そこでここでは、競走と拳闘(ボクシング)の例を挙げています。なぜでしょうか。それは前の段落にあったように、ギリシャ人にはギリシャ人のようになって、ギリシャ人を得るためです。

しかしこの聖書個所に限らずに、パウロの手紙には宣教者の人生を競技場を走る競走者に譬える話が多く出て来ます。恐らくパウロ自身も何らかの競技を実際にしていたのではないかと思われます。現代のオリンピックでは賞を受けるのは上位8名で、上位3名は金、銀、銅のメダル、4~8位は賞状を受けます。しかし当時は賞を受けるのは優勝者一人だけで、後は2位から最下位は同じ扱いです。そこでパウロは、「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」と言います。このパウロの言葉を皆さんはどのように思われるでしょうか。何か一昔前の日本の姿を思い出します。

高度成長期の日本のように、一位の優勝だけを目指して皆が頑張る姿です。このパウロの言葉を聞くと、「パウロは何だかんだと言いながら、結局は自分が天国で一等賞を取るために頑張っているのか」と思うかも知れません。そんな競争には今更付いて行けませんというか、そんな賞なんかいらないでしょう、と思ってしまいます。

確かに、この当時のオリンピック等では賞を受けるのは優勝者一人だけです。それではクリスチャンも天国で賞を受けるのは一人だけなのでしょうか。そうであれば優勝者はパウロの可能性が高いでしょう。もしそうであれば天国も何だか世知辛いところです。しかし天国は一人だけが賞を受ける競争であるとは聖書は言っていません。逆に7:17では、「おのおの主から分け与えられた分に応じて歩みなさい」と言います。

2、節制

それではここでパウロが、「賞を受けられるように走りなさい」と言っているのは、どういう意味なのでしょうか。それは賞を受けられるように走るために、競技をする人は皆、すべてにおいて節制するということです。つまりパウロが言おうとしているのは節制をしなさいということです。

賞を受けるのは一人だけで、賞を受けられるように走るというと、手段を選ばないで、違法な薬を使ったドーピングをしたりとか何とか他の競技者の妨害をして足を引っ張ったりすることも有り得ます。しかしパウロは賞を受けられるように走るために大切なことは節制であると言います。

この当時のオリンピックに出場するには、10か月の準備訓練の期間があって食べ物や飲み物の節制が行われました。さらにその後の1か月の強化合宿の検査に合格して初めて出場の資格が得られました。それは、まさに自分の体を打ち叩いて従わせる節制です。

私はボクシングやキックボクシング等の格闘技が好きで良くテレビやインターネットで見ます。試合そのものを見るのも好きですが、最近では選手たちが試合に向けてトレーニングしたり、食事などの節制をしている準備段階の様子が公開されます。

ボクシング等では体重別の階級制になっていますので、普段の体重から10キロ位減量して競技に臨むこともあります。そういう姿を見てから試合を見るのが好きです。競技はその本番の試合で運に左右されることもありますが、基本的には普段の準備段階の節制の姿そのものが現れて来ます。普段は節制をしていない人が競技の本番の時だけ頑張っても結果が付いて来る程簡単なものではありません。節制をするということは、自由奔放な生活を諦めなければならないこともあります。しかし、それは元々本来は必要のないものでもあるかも知れません。

節制した生活をしている時というのはとても清々しく、体調も気分も良いものです。ところでパウロはここでも飽くまでも、8:4の偶像に献げた肉を食べることについて話しています。確かに偶像の神は存在しないものですから、偶像に献げた肉を食べても問題はありません。

しかし良心の弱い人はそれによって良心が汚されてしまいます。パウロは良心が汚されてしまう弱い人の前では、偶像に献げた肉を食べない位の節制はしなさいと言っています。その位の節制が出来なければ、主イエスが節制の限りを尽くされた、十字架による救いの福音を告げ知らせることなど到底出来ないということでしょう。せっせと節制しなさいということです。

3、冠

この当時オリンピックの優勝者が受ける冠は色々な説がありますが、一つは月桂冠、月桂冠は日本酒ではなくて月桂樹で作られた冠です。コリントの近くのイストモス大祭では松の冠と言われます。ギリシャ人にとっては、これらの祭りはギリシャ神話の神に捧げるものでしたので神聖なもので、そこで受ける冠は名誉なものだったのでしょう。

しかしそれらは朽ちてしまう冠です。しかしクリスチャンの受ける冠は朽ちることのない冠です。この冠はⅡテモテ4:8では「義の冠」、ヤコブ1:12では「命の冠」、Ⅰペトロ5:4では「消えることのない栄冠」と言われています。どんな冠なのか楽しみです。

ただ義の冠、命の冠とは呼ばれますが、節制をしたから義とされて永遠の命を与えられて、義の冠、命の冠を受けるのではありません。義とされて永遠の命を与えられるのはあくまでも主イエスに対する信仰だけです。信仰義認、信仰によってのみ義と認められるのです。そして主イエスを救い主と信じる信仰によって救われて、忠実に節制した全員に義の冠、命の冠は与えられます。

4、宣教計画

そしてその様に折角節制するのですから、節制によって身に付けた力は効果的に使う必要があります。それは競技においても節制するということです。そこでパウロは、「私は、やみくもに走ったりしない」と言います。新改訳は「私は目標がはっきりしないような走り方はしません」と訳しています。

同じ走る競技でもゴール迄の距離が違う短距離と長距離では走り方は違って来ます。短距離ではその距離で全力を出し切りますが、長距離ではペース配分が必要になって来ます。ところで競技場のことをスタジアムと言いますが、これはギリシャ語の距離の単位のスタディオンから来ています。聖書にも距離の単位としてスタディオンが出て来ますが1スタディオンは約180メートルで直線コースとなっています。1スタディオン以上の距離はコースを往復したそうです。

また「空を打つような拳闘もしません」。これはボクシングを知っている人には戸惑う御言です。ボクシングでは練習でシャドーボクシングと言って、仮想の相手を見立てて素振りのような練習をしますので、空を打ちます。また本番の試合の中でもジャブは相手との距離を測ったり、相手を牽制したりするために空を打ちます。しかし聖書はボクシングの技術的な専門書ではありません。「空を打つような拳闘をしない」というのは狙いをしっかりと定めて外さないということです。ボクシングでは、空振りをすると体力をロスしてしまいますし、相手に反撃の隙を与えることになってしまいます。競走でも拳闘でも本番の競技で節制した動きをするためには、普段から節制することです。パウロの宣教旅行を見るととても戦略的であると思います。ある地域で宣教するためには、大きな都市に行って宣教するのが効果的であると考えて、コリントやローマ等の大きな都市を目標にしていました。そしてそのために、自分の体を打ち叩いて従わせます。

5、失格者とならないために

それは、他の人に宣教しておきながら、自分のほうが失格者とならないためです。パウロがここでいう失格者とは何に失格することを意味しているのでしょうか。天国に入ることでしょうか。しかし天国に入る救いは信仰のみなので、行いは関係ありません。

「宣教しておきながら」は、ケーリュクスでありながらと書かれています。ケーリュクスというのは、競技で選手を呼んだり、競技者にルールを教える人です。陸上競技とかボクシングで選手を引退してコーチや監督になると、人によりますが選手には節制を要求しますが、自分はたばこを吸ったり酒を飲んだりと節制をしなくなる人もいます。

しかしクリスチャンの人生で、自分はクリスチャンの生き方から引退して、他の人には節制を求める宣教をしておきながら、自分は節制をしないでコーチだけをするということは有り得ません。クリスチャンの生き方に引退はありません。クリスチャンは生涯現役で、例えコーチの役を担うようになっても、コーチ兼選手として一生節制を行います。

人には節制を説きながら、自分は全く節制していなければ説得力がありません。ましてや宣教は霊的な働きですから、霊的な節制をしていない人が、他の人に霊的な節制を説いても伝わるはずがありません。ここで言っていることは23節と同じで、福音に共にあずかる者となるために、福音のためにすべてのことをします。

それと同じように良心の弱い人をつまずかせないためには偶像に献げた肉を食べない節制をします。それは他の人に節制を勧める宣教をしておきながら、自分がクリスチャンの生き方として宣教者として失格者とならないためです。そのためには普段から神との交わりに生きて聖霊の力によって霊的な節制をすることです。そうすることによって私たちは心身共に力を得て生きることが出来ます。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロは朽ちない冠を受けるために霊的な節制をしなさいと勧めます。まだ救いに与かっておられない方をどうぞ救いへとお導き下さい。そしてまた既に救いに与かった者は時に安心感から霊的な節制に対して緊張感を失うこともあるかも知れません。

しかしこの世には自分の家族も含めてまだ救われていない方が多くいます。私たちは競技を行うアスリートが節制した生活を行うように、聖霊の力を頂いて自分の持っている権利を時には用いないで節制して、人々の救いのために生きるものとさせてください。

また聖霊の満たしの中で、クリスチャンは良い意味の緊張感を持って、アスリートのように節制をして走る者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。