頭とかぶり物

2020年11月15日
コリントの信徒への手紙一11章2~7節

主の御名を賛美します。今日の説教題は漢字だけですと、「あたま」と「かしら」のどちら“かしら”と頭を抱えてしまいます。実は両方の意味が含まれています。リバーシブルな説教題です。さて約30年前の夏に2か月間、私は仕事でロシアのカムチャッカにいました。

カムチャッカは北海道の北東の千島列島の先です。カムチャッカの中心都市はペトロパブロフスク・カムチャツキーです。ペトロパブロフスクの名前の由来は初めにペトロパブロフスクに来た時の探検隊の船の名前のペトロ号とパウロ号からです。

町にはその船の名前の使徒のペトロとパウロの銅像があって何だか良いのか悪いのか良く分かりませんが。因みにカムチャツキーのカムは魚、チャツキーは燻製で、カムチャツキーは魚の燻製という意味です。名前の通りにサケ等の燻製が名産です。

私はサケの卵から筋子を作る仕事の管理で行っていました。私がある日曜日に礼拝に行こうとしたところ、町にはロシア正教の教会が一つしかありませんでしたので、そこに行きました。するとそこの礼拝の出席者の間で議論が始まりました。

何を議論しているのか通訳に聞いたところ、礼拝出席者の若い女性が頭にかぶり物を着けていないことが原因で揉めているとのことでした。正に今日の聖書個所の内容でした。今日の御言はどのように受け止めれば良いのでしょうか。御言を聴かせて頂きましょう。

1、頭(かしら)

今日の個所から新しい内容に入ります。これまでの7~10章はコリント教会からの質問に対してパウロが答える内容でした。7章は結婚と未婚のこと、8~10章は偶像に献げた肉についてでした。新しい内容に入る前にパウロはまずコリント教会を褒めます。

しかしこの後の17節では、良くないことは、はっきりと褒めるわけにはいきませんと言います。パウロはコリント教会に厳しいことも言いますので、褒めることはコリント教会をつまずかせないための配慮かも知れません。一般的にはこういうことは「飴と鞭」と思われるかもしれませんが、小手先の方法というよりは、パウロの心からの愛に基づく真摯な姿勢だと思います。

パウロは褒めているのは、コリント教会が何かにつけパウロを思い出し、コリント教会に伝えたとおりに教えを守っていることです。この当時はまだ新約聖書がありませんので、コリント教会はパウロや他のクリスチャンから伝えられた福音や生活の教えを守ろうとしていました。

パウロは1:11でクロエの家の者たちからコリント教会の色々な話を知らされていました。それに基づいて1~4章ではコリント教会の中にある争いのこと、5章では性的不品行について指導をしました。今日からの11~14章は礼拝についてです。今日と来週はかぶり物についてです。かぶり物について考える時にまず知っておくことがあります。それはすべての男の頭はキリストです。気を付けて頂きたいのは、同じ「頭」という漢字を使っていますが、3節だけは「かしら」と読みますが、4節から後は「あたま」と日本語では使い分けています。

原語のギリシャ語ではどちらも一緒で、英語でもどちらもheadです。ややこしいので新改訳では「かしら」は平仮名にしています。すべての男の「あたま」がキリストになってしまうと皆、同じ頭と顔ということになって可笑しなことになってしまいます。さて「かしら」とはどういう意味でしょうか。一つには権威を意味します。

職人の世界では上の人を「かしら」と呼びます。ヤクザの世界では若頭という役職があります。また「かしら」には源、起源という意味もあります。キリストは神の御言に従って、全ての男を創造されました。男の起源はキリストです。同じ意味で女の頭は男です。

女は男のあばら骨から造られましたので、男が源、起源です。そしてキリストの頭は神です。

これはキリストが何か神より劣るという意味ではありません。キリストは同じ神ですが、神に従うという意味です。これを繋げると順序として神―キリストー男―女となります。これは神の創造に基づく秩序です。そして神の秩序に基づいてかぶり物について考えて行きます。

2、男の頭にかぶり物

まずは男が祈りや預言をするときです。その時に頭にかぶり物を着けることが問題になるということは人に見られる場面ですから、これは公の礼拝の時ということです。しかし礼拝の中で祈りをするのは分かるけれど、預言もするのかと思われるかも知れません。

預言について、ここでは一言だけ言いますと、預言は神の言を預かって語ることです。ですから神の言である聖書の御言を預かって、毎週、日曜日に茂原教会の子ども礼拝で語られる説教も預言です。預言については14章で詳しくお話しますのでお楽しみにしていてください。

祈りや預言をするときである礼拝で、男は頭にかぶり物を着けるなら、自分の頭を辱めることになります。なぜなのでしょうか。頭はかしらであるキリストの栄光を映します。かしらには頭の意味もあります。尾頭付きの鯛とは尾と頭の付いた鯛のことです。

人間は男も女も今年度の茂原教会の御言通りに神のかたちですが、創造の順序から言って、まず男が神のかたちであり神の栄光を映す者です。そしてキリストの栄光を映す頭にかぶり物を着けるということは、キリストの栄光に覆いをしてしまって、かしらであるキリストの栄光を映さないことです。プロジェクターでいうと蓋を閉めて光を映させないことです。

キリストの栄光を映さないということは、誰の栄光を映すことになるのでしょうか。自分自身の栄光です。祈りや預言でキリストの栄光ではなくて、自分の栄光を映してしまったら自分の頭、かしらを辱めることになります。

この聖書の内容と直接の関係はありませんが、男のかぶり物というと何となく思い浮かぶのは某元副総理が黒い大きな帽子を被っていた姿です。アメリカのマスコミにギャング・スタイルと言われていましたが、某元副総理はカトリックのクリスチャンです。この聖書個所は礼拝中のことですから、普段は別にどんな帽子を被っても問題はないとは思いますが・・・。今回のアメリカの大統領選挙では二人とも良く帽子を被っていましたが、あれは単純に風で髪型が乱れるのを防ぐためだと思います。

もう一つ帽子で思い浮かぶのはユダヤ人の男が被るキッパという小さな帽子です。キッパは逆に頭の上に神がおられることを意識して、神に対して崇敬の念を表すためです。この当時、コリントに男で頭にかぶり物を着ける者が実際にいたのかというと、どうもそうではないようです。パウロは次の本丸である女のことを言うための説明として男のことを言ったようです。

3、女の頭にかぶり物

そもそもなぜ女の頭にかぶり物を着けることが問題になっていたのでしょうか。いくつかの背景が考えられます。まずユダヤ教では礼拝で女はかぶり物を着ける決まりがあるので、ユダヤ人のクリスチャンの女はかぶり物を着けていました。

しかしギリシャ人のクリスチャンは10:23の「すべてのことが許されています」と考えますので、かぶり物を着ける必要はないと考えて人種間の文化の違いによる問題がありました。またコリント教会には祈りや預言をするときに、恍惚状態になってかぶり物を取って、髪を振り乱して礼拝の秩序を乱す女預言者もいたようです。

また自分の髪の美しさを見せびらかす虚栄心を持つ女もいたようです。しかし男はかぶり物を着けるべきではないのに、なぜ女はかぶり物を着けるべきなのでしょうか。それは女は男の栄光を映す者だからです。女は普段の日常では男の栄光を映します。それは神が造られた秩序です。

ところで女は男の栄光を映す者というのは、どのような意味なのでしょうか。それは順序から言って、キリストが神の栄光を映すようにです。キリストは人々の救い、多くの人の利益を求めてご自身を犠牲にされました。それは神の栄光を映して、御心を行ったものです。

同じように男はキリストの栄光を映し、女は男の栄光を映します。女が男の栄光を映すと言うのは、表現が難しいですが、キリストが神の権威に従われたように従うという意味でもあります。ヨハネ14:9で主イエスは、「私を見た者は、父を見たのだ」と言われました。

なぜかというと、キリストは神の栄光を映す者だからです。同じようにいうと、「女を見た者は、男を見たのだ」となります。結婚をしている男性がどの様な人であるかはその奥さんを見ると良く分かります。奥さんがいつもにこやかで穏やかな人のご主人は柔和な人であることが分かります。女は男の栄光を映す者です。子は親の鏡と言われますが、妻は夫の鏡です。もうこれ以上は言いません、と言いますか言えません。ブーメランのように自分に返って来ますので。男性の皆さんはお互いに大変ですね。

さて礼拝の時には、女はかぶり物を着けることによって、かしらである男の栄光、人間の栄光に覆いをすべきです。女がかぶり物を着けないことは、祈りや預言で、本来映すべき神の栄光ではなくて、男や人間の栄光を映すことです。公同の礼拝の祈りでご主人の栄光を映して、また手柄を立てたとか出世したとか語るのは、たまには許されるかも知れませんが、毎回ですと返って自分の頭であるご主人を辱めることになります。それは髪の毛をそっているのと同じで、そのようなことをするなら、髪を切ってしまいなさい、と言います。

旧約聖書で髪をそるのは規定の病に患った人で(レビ14:9)、髪を切るのは捕虜の女を自分の家に連れ帰る時です(申命記21:12)。それらが恥ずかしいことなら、かぶり物をつけなさい、と言います。これは当時の常識的な習慣の感覚です。しかし現代ではファッションとして女で髪をそってスキンヘッドにしていたり、髪を短く切っている人もいますので、現代の感覚とは少し違うものです。

4、頭とかぶり物

ところで、茂原教会に限らず、これまで私は日本の礼拝では女性が頭にかぶり物を着けているのはほとんど見たことがないと思います。そしてそれに対して私を含めて誰も疑問は持っていないと思います。

初めにお話ししたロシアの教会のように、聖書に書いてある通りに、女性はかぶり物を着けるべきだとは、高齢の方でも言いません。日本では逆に室内でかぶり物を着けているのはマナー違反ではないかという議論もあります。聖書にあるからか女は着けていて良いようです。

これは二千年前の古い習慣の話で現代には関係のないことなのでしょうか。しかし聖書は時代によって変わるドレスコードを記した書物ではありません。男が礼拝で頭にかぶり物を着けるべきではないということの霊的な意味は、祈りや預言ではかしらであるキリストの栄光を映すべきで、キリストの栄光に覆いをしてはならないということです。

ですから本当に大切なのはかぶり物を着けるか、着けないかではなくて、かしらであるキリストの栄光を映すか、それともキリストの栄光に覆いをして自分の栄光を映すかです。男がかぶり物を例え着けていなくても、自分の栄光を映していたら全く無意味なことです。

同じように、女がかぶり物を例え着けていても、神の栄光を映さずに、男や自分の栄光を映していたら無意味です。しかし礼拝の祈りや預言で突然に神の栄光を映すといっても難しいものです。先週からの続きで言えば、パウロがキリストに倣う者であるように、私たちはパウロに倣い、またパウロの姿を通してキリストに倣う必要があります。

そして協会共同訳が、栄光を「映す」という訳を使っているのは面白いと思います。直訳では、「男は神の栄光、女は男の栄光」です。映すということは自分自身が何かをするのではありません。男はただ映される栄光の光を遮らないだけです。

神と自分の間に神の栄光を遮る障害物を置かないだけです。女は逆にかぶり物を着けて男の栄光を覆うことです。しかしそれさえも聖霊の力なくして私たちには出来ることではありません。聖霊の導きの中で、かしらの栄光を映す時には映し、覆うべき時には覆わせて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは御心に従ってこの世の全てを創造し、秩序を作られました。私たちはあなたの造られた秩序に従って、かしらの栄光を映し、また礼拝をおこなうことが出来ますように、聖霊の力によってお導きください。

主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。