主の体と血による新しい契約

2020年12月6日
コリントの信徒への手紙一11章23~34節

主の御名を賛美します。最近は寒さが増して来て紅葉も進んでいるようです。しかしコロナウイルスの影響によって外出の機会が減って、余りクリスマスの飾り等を見る機会も減ったためか、何か12月に入ってクリスマスが近付いている実感が余りしない感じもしています。

1、主から受けたもの

先週の箇所ではコリント教会の集まりでの食事である愛餐を各自が勝手に自分の食事を済ませていました。そしてそれは食事を持参しない人々を侮辱することになっていて愛餐となっていませんでした。その結果、一緒に集まった時に行う主の晩餐を食べることになっていませんでした。

主の晩餐は礼典である聖餐の元になったものです。礼典はプロテスタントでは洗礼と聖餐の二つだけで、キリストによって制定されたもので、霊的な祝福の目に見えるしるしです。カトリックでは礼典を秘跡やサクラメントと言いますが、この二つの他に堅信、告解、病者の塗油、叙階、婚姻の5つを合わせて7つがあります。

パウロは、「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです」と言います。さらっと書かれていますが、パウロは使徒言行録9章でダマスコに行く途中で主イエスに出会っていますが、主の晩餐については、果たしてどこで主から受けたのだろうかと思います。

これは主の啓示を受けたのだという考えもあります。しかしここの、「伝えた」、「受けた」という原語の言葉は、伝承・言い伝えを受けて伝えたという意味の専門の用語です。ですからこれは、主によって教会に伝えられて来た伝承という意味で、パウロが直接に聞いたのではありません。

2、愛餐と聖餐

その内容は小見出しに書かれている福音書の内容のほぼその通りです。それは主イエスが引き渡される夜のことです。ところでユダヤ人は夜に食事をしていたのでしょうか。ユダヤ人は普通は一日二食でした。午前の朝食と午後の夕食ですが、夕食は三時の祈り迄は食べてはいけないとされていた程に早い時間の夕食でした。

電気のない時代であれば、片付けも考えると明るい早い時間に食事を済ませるのは自然なことです。本当の夜に食事をするのは、過越しの祭りの食事とか、マタイ25章の十人のおとめの譬えに出てくるような婚宴の食事などの特別な時だけでした。ですから主の晩餐はやはり過越しの祭りの食事です。

先週の記事は一緒に集まって食事をする愛餐の内容でした。今日は聖餐の元となった主の晩餐の内容です。さて愛餐と聖餐にはどのような関係があるのでしょうか。余り厳密な区別がなかったのではないかと考える人もいます。しかしマタイとマルコの福音書によると、一同が食事をしているときに、主イエスがパンを取り、祝福してそれを裂き、聖餐を始めました。そして終わると賛美の歌を歌って、オリーブ山に出かけました。そのことから聖餐は愛餐の最後に行われていたと考えられています。

3、聖餐の内容

主イエスは、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」 一か月前にこのパンとは何かについてお話しましたが、今日の個所にも面白い表現が使われていると思います。

まず主イエスは、パンを取られています。しかし私の体であると言われて、その後に私の記念と言われました。食事の後、杯も同じようにして言われました。「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい」。これは葡萄酒を飲む時には毎回行いなさいということです。

これはどの言葉に注目するかによって考え方は大きく変わって来ます。カトリックでは、「私の体と血」という言葉に注目して、パンと葡萄の実から作ったものである葡萄酒は主イエスの体と血そのものに変化するという化体説を信じますので、聖餐のことを聖体と言います。

プロテスタントの中には、「パンと葡萄酒と記念」の言葉に注目して単なる象徴に過ぎないと考える象徴説に立つグループもいます。ホーリネス教団は、カルバンが主張した、パンと葡萄酒はそのままですが、そこには主イエスの霊的な臨在が伴うという臨在説を取っています。御言を聴くことも大切ですが、主イエスが命じられたように五感によって聖餐を味わうことも大切です。

そしてクリスチャンは、このパンを食べ、この杯を飲む聖餐の度に、主がこられるときまで、将来主イエスがこの世に再び来られるアドベントの間、主の死を告げ知らせます。主の死を告げ知らせるというのは、ただ単に主が十字架で死んだということを告げ知らせるだけではありません。

それは私たちの罪の赦しのため死、贖いのための死であることです。そして、その死によって主イエスを信じる者は罪を赦されて救われるという、主の体と血による新しい契約を告げ知らせることです。

4、聖餐のあずかり方

て主の晩餐である聖餐は分かりましたが、では聖餐にはどのようにあずかるのかです。「従って、ふさわしくないしかたで、主のパンを食べ、主の杯を飲む者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」。罪を犯すことになる、「ふさわしくないしかた」とはどういうしかたのことでしょうか。

それは21節にあった、「勝手に自分の食事を済ませたり、酔っている」ことです。聖餐は私たちの罪のために十字架に付けられた主イエスを覚えるものです。そして主イエスの体である一つのパンから裂かれたパンを食べることによって、私たち一人一人は主イエスを頭とする一つの体であることを覚えるものです。同じ一つの体である隣り人が空腹であるのに自分だけ満腹では、隣り人と一つの体であることを覚える聖餐にあずかることはふさわしくありません。

9章のところで、クリスチャンの自由は他の人をつまずかせないためには、敢えて自分の権利を用いないという自由で、節制をするとありました。自分だけ満腹で隣り人が空腹では、隣り人をつまずかせないための節制に全くなっていません。27~32節はユダや文学の平行法で書かれています。平行法というのは同じことを似た表現で繰り返して言うことです。27節と29節は同じ内容で聖餐における罪です。

「主の体をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです」。「わきまえないで」は「ふさわしくないしかた」と同じ意味です。それは罪を犯すことで、自分に対する裁きを食べて飲むことになります。

因みに聖餐を受ける時は前の日の夜中の12時から断食することが3世紀に当時の教会で決められました。今は緩やかになりましたが、カトリックでは今も聖餐前の1時間は水と薬以外の飲食は禁じられています。プロテスタントでは決まりはありません。

茂原教会の場合は別に断食を意識している訳ではありませんが、礼拝が始まってから聖餐迄に1時間位は掛かりますので自然に断食になっていると言えばそうかも知れません。

正しい聖餐のあずかり方は28節と31節です。28節では、「人は自分を吟味したうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」。31節は、「もし私たちが、自分をわきまえていれば、裁かれることはなかったでしょう」。要するに正しい方法は、「自分を吟味し、自分をわきまえる」ことです。

具体的にはどのようにすることでしょうか。私たちは聖餐を行う前に悔い改めの祈りを行います。それは私たちの罪の赦しのために十字架に付けられた主イエスの体と血による新しい契約を覚える聖餐にあずかるために、自分を吟味しわきまえるためです。それは悔い改めていない罪を悔い改めることであり、また私たちが他の人の罪を赦していないことがないか吟味して、もしあるなら赦して悔い改めます。

ふさわしくないしかたで聖餐を受けていたコリント教会にはどんな裁きがあったのでしょうか。あなたがたの間に、弱い者や病人が大勢おり、また死んだ者も少なくないのは、その裁きのためです、と言います。とても厳しい言葉だと思いますが、私たちは読み間違えないように注意する必要があります。

弱い者や病人が大勢いて、死んだ者も少なくない場合の全てにおいて、その原因がふさわしくないしかたで聖餐を受けた裁きであるとは限りません。高齢化社会で長生きをすれば、弱い者や病人が大勢いて、死んだ者も少なくなるのは自然のことだからです。

他の人が病気になったり死んだ時に、ヨブ記にあるように、罪の裁きではないかというようなことは口にするべきではありません。それはただでさえ病気や死で苦しむ人を裁きだと言って二重に苦しめることです。これは若しかすると裁きではないかということは、自分自身を吟味するためだけにするべきです。30節とセットになるのは32節でしょうか。

しかし、私たちが例えもし裁かれたとしても、裁かれているのは、主によって懲らしめを受けることです。それは父親が愛する子どもが正しい生き方をするようにと願って行う躾けのようなものです。パウロ自身も、思い上がることのないように体に一つの棘が与えられていたとⅡコリント12:7にあります。それはこの世と共に罪に定められることがないためです。主の体と血による新しい契約に生きる者は、永遠の罪に定められることはありませんが、ふさわしい者へと造り変えられて行きます。

5、結論

最後の結論は先週もお話ししましたが二つの事です。一つは、食事のために集まるときは、互いに待ち合せなさい。食べるときは一緒に食べなさいということです。そして、もう一つは、空腹の人は、家で食事を済ませなさい。空腹な者もいる前で一人でがつがつと食べるのはやめなさいということです。

その後に、「あなたがたが集まることによって裁きを受けることにならないためです」と言うことは、そういうことによって裁きを受けるということです。皆さんは結論のこの二つの内容をどのように思われるでしょうか。この二つは消極的な最低限の内容だと思います。

パウロの本音はもっと積極的な言いたいことがあったのだと思います。それは同じ主イエスの体として、皆で持ち寄った物を皆で分け与えて共に食事をして欲しいということです。それが愛餐であり、主の晩餐にあずかるふさわしいしかたではないかということです。

そのようなことは今日の聖書個所のどこに書かれているのかと思われるかも知れません。実は、それが、最後の、「その他のことは、私がそちらに行ったときに決めましょう」の内容だと思います。パウロは恐らく自分から、「皆で持ち寄った物を皆で分け与えて共に食事をして欲しい」というような指示はしたくなかったのだと思います。

コリント教会が自分達で考えて自主的に言い出して欲しかったのではないでしょうか。それで、「その他のことは、私がそちらに行ったときに決めましょう」と含みのある言い方をして、パウロがコリントに来るまでに、コリント教会に気付いて考えて欲しかったのではないかと思います。

それがコリント教会の霊的な父のような存在であるパウロが、コリント教会の成長を願って、13節等で「自分で判断しなさい」と言った思いではないかと思います。似た様な意味で私たちは時に主に裁かれて懲らしめを受けることもあるかも知れません。

しかしそれはこの世と共に罪に定められることがないためです。懲らしめによって私たちが自分の罪に気付いて悔い改めて欲しいからです。自分の罪に気付くための導きは聖霊が与えてくださいます。

私たちはクリスマスにこの世に来られた主の体と血による新しい契約に、恵みによってあずからせて頂き永遠の命を頂く者です。主の体と血による新しい契約の恵みを味わい、感謝しつつこのアドベントを過ごさせて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは毎月この第一の主日に聖餐にあずかっていました。しかし今は、コロナウイルスの影響により聖餐も愛餐会も行えません。しかし、このような時であるからこそ、聖餐の意味を改めて教えられ、今まであずかっていた恵みを改めて覚えています。コロナウイルスが早く収束し聖餐の恵みにあずかれる時が早く来ますように、また今困難の中にある方々にあなたの助けがありまするようにお祈り致します。またこのアドベントに、主のご降誕の意味を味わいつつ過ごす事が出来ますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。