神は真実なかた

2020年4月19日
コリント人への第一の手紙1章1~9節

主の御名を賛美します。皆さま、如何お過ごしでしょうか。普段教会に集まって一緒に礼拝している方々と同じ場所で礼拝が出来ないことは残念ですが、こういった形でも共に礼拝が出来ることは感謝なことです。また一緒に集まれないからこそ、教会とは何かということを改めて考える機会を与えられていることは一つの導きでもあると思います。

1、コリント教会

今日からコリント人への第一の手紙に入りますが、この手紙の宛先のコリント人とはどんな人でしょうか。茂原はかつてコリン星と呼ばれていました。コリント人というとコリン星である茂原の聖徒の様な感じもしますので、そうすると茂原教会の人のことかも知れません。コリントは地理的にはギリシャの都市で、東西は陸路が狭まった所、南北は海に挟まれて二つの港がある交通の要衝として発展して大きな歓楽街になっていました。歓楽街ですから風紀は乱れ切っていて、コリントの名前は不道徳の意味で使われていました。そしてコリント教会も地域の影響を大きく受けていました。私は以前に睦沢に住んでいた時には、茂原は睦沢より発展しているけど何だか怖い所だなと思ったことがありました。

 私が聖書学院の修養生だった時に、修養生の後輩に出身の母教会の話を聞いたことがありました。「母教会はどんな教会ですか」と聞いたところ、その後輩は「コリント教会です」との返事でした。

その修養生は別にギリシャからの留学生ではなくて日本人です。修養生の会話かも知れません。その意味は来週の10節からの内容になりますが教会が分裂しているとのとのことでした。パウロは色々な教会宛に手紙を書いていますが、その中で、コリント人への手紙はある意味で一番きつい内容と言えます。内容をご存知の方は分かると思います。しかしなぜその様な内容になったのでしょうか。

 この前のローマ人への手紙もとても面白い内容でした。しかしローマの教会はパウロが作った教会ではなくて、またパウロはまだ一度も行ったこともない教会で事情も良く分からない等の遠慮もあるからか、パウロは具体的な問題の話はしませんでした。ある意味で一般的な神学の内容でした。しかしコリント教会はパウロ自身が第二回の伝道旅行で作った教会で、問題の内容も良く知っています。そこでパウロは牧会者としてコリント教会の問題を解決するためにとても具体的に現実的な問題を書いています。それは多かれ少なかれどこの教会にもある問題ですので、とても興味を惹かれます。

しかし茂原教会にもある問題とすると、教会に集まって皆さんのお顔を見ながら話すのは難しいかも知れません。皆さんの顔を見ないで話せるのは導きかも知れません。教会に集まることが出来ない今こそ、教会の問題を冷静に受け止めて考える良い機会でもあります。また問題ばかりが書かれているのではなくて13章では、愛について書かれた素晴らしい内容も含まれています。

 今日の聖書個所は、使徒パウロからコリント教会の聖徒へ等、とても上品な書き方です。この後の内容を考えるとパウロは丸で嫌味か皮肉で書いたのかとも思われる程です。

それは一体どの様な意味で、どの様な思いで書いたのか、御言を聞かせて頂きましょう。

2、差出人

今日の箇所は手紙の初めの挨拶ですが、パウロの挨拶の基本パターンで、1節は差出人、2節は宛名、3節は祈り、4節から感謝になっています。まず差出人はパウロです。コリント教会はパウロを良く知っていますが、パウロは今自分がこの手紙を書くに当たってどの様な権威によるのかを説明します。自分は、「神の御旨に召されてキリスト・イエスの使徒となった」と言います。使徒の定義、条件は使徒行伝1:21、22で二つあって、「一つは主イエスがこの世におられる時に行動を共にした人で、もう一つは主の復活の証人である人」です。ですから初めの使徒は12使徒だけです。

パウロは生前の主イエスと行動を共にしたことはありませんし、主イエスが復活された時にも会ってはいませんのでその時の証人ではありません。ですからパウロが使徒であることには疑問が投げかけられています。そういう意味で自分が使徒であることの説明が必要だったのでしょう。パウロは使徒行伝9章でダマスコに向かっている時に、復活の主イエスに出会って、主によって遣わされました。使徒は遣わされた者という意味です。パウロは説教題である真実な神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となりました。自分でなりたいと思って、自分の思いでなったのではありません。兄弟ソステネの名前が書かれていますが、これは手紙の共同の差出人というよりは、この手紙はパウロ個人の主張ではないという意味で書かれていると考えられます。

3、宛名

2節の宛名はコリントにある神の教会です。他の手紙ではただ何々教会へと書いているのに、コリントの教会宛だけには、わざわざ教会の前に「神の」と付け加えて、神の教会としています。それは教会が例えどんな状態であったとしても、教会は真実なかたである神に所属する神の教会であるという宣言とも言えます。

そして教会とは何かを説明して、まず「聖徒として召されたかたがた」です。教会とは真実な神に召された聖徒の集まりです。教会の建物は教会堂であって、教会はあくまでも聖徒の集まりのことです。また例え聖徒と呼ぶのも相応しくない様に見える者であったとしても、真実な神によって罪の中から召されて神の子とされた者は聖徒です。

聖徒はどんな罪人であったとしても、キリスト・イエスの十字架によってきよめられた者です。因みにコリント教会は地理的にも異邦人を中心とした教会です。さらにキリスト・イエスによってきよめられ、聖徒として召されたかたがたは、コリントの教会だけではありません。

「わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に」です。ですから、コリン星で主イエス・キリストの御名を呼び求めている茂原教会の人々と共にです。つまりこの手紙は茂原教会宛のものでもあります。ですからこのキリストは、わたしたち、コリント教会の主であり、また彼らである、茂原教会の主であられるのです。パウロは1行の文章が長くて、1節から次の3節までが1行です。

4、祈り

3節の祈りはいつも通りに、「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」です。この祈りには色々な意味が込められています。まず「父なる神」は神は父であること、「主イエス・キリスト」はイエス・キリストは主であるという初代教会の信仰告白の言葉です。

また「恵みと平安とがあるように」はギリシャ人の挨拶の「恵みあれ」とユダヤ人の挨拶「平安あれ(シャローム)」の組合せです。また恵みと平安は原因と結果という関係もあります。

真実なかたである神が与えてくださる恵みを恵みとして受け取ることが出発点です。罪深い私にも真実なかたである神が恵みを与えてくださると感謝して受け取る時に、神が私と共にいてくださるという平安が与えられます。神なしの平安は有り得ません。

5、感謝

4節から8節もまた長い1行の文です。パウロはコリント教会がキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝しています。勿論、今のコリント教会の問題だらけの状態はとても感謝等出来るものではありません。しかし例えどんなに問題だらけの状態であったとしても、神にある神の教会ですからキリスト・イエスにあって与えられている神の恵みが必ずあります。全てを纏めて十把一絡げにコリント教会は問題だらけでだめだと言うのではなくて、まず与えられている神の恵みを思って、いつも感謝することは大切です。そこに神にある平安が与えられます。

パウロはコリント教会にどの様な恵みを見出しているのでしょうか。パウロは、すべてのことに、と言いつつ、その前に「キリストにあって」と釘を刺す様に言って、恵みは自分を誇るのではなくて、すべてはキリストにあることを現します。そしてコリント教会は、特にすべての言葉と知識に恵まれていると言います。22節に「ギリシャ人は知恵を求める」とありますが、福音を伝えるにも語る言葉と知識に恵まれているのは恵みです。ただ言葉と知識は正しく体系立てられて、御心に従って用いられなければ良い役には立ちません。コリント教会では言葉や知識が正しく用いられていなかったので混乱に陥ってしまいました。確かに言葉や知識は悪い目的に使われると返って混乱を引き起こします。言葉や知識には恵まれているけど、それを用いて屁理屈ばかりを言っていては困りものです。

恵まれた言葉や知識によってすべきことは、キリストのあかしが確かなものとされることです。それは何に繋がるのかと言えば、主イエス・キリストの現れる再臨を待ち望むことです。このことにもコリント教会は問題がありました。

15章にはコリント教会に死人の復活や再臨などはないと言っている人がいることが議論されています。パウロはこの手紙の挨拶で感謝を述べつつ、コリント教会の問題をかなり牽制していることが分かります。ただパウロはこの手紙でコリント教会の問題を取り上げて、裁いて、お前たちの様な問題だらけの者は到底天国には入れないと言っているのではありません。

4節から続く感謝の終りに、「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にしてくださるであろう」と言います。これはまた逆にパウロが楽観的にどんな人でも天国に行けるよと言っているのでもありません。

コリント教会員の今の状態がどうであろうと、神は真実なかたなので、最後まで堅くささえて導いてくださる、そして主イエスの十字架の贖いによって、責められるところのない者にして下さるという恵みです。ただそれならばどうでも良いと言うのではなくて、神の真実である恵みに相応しい者となる様に変えられて行く必要はあります。そこで、パウロはこれから使徒としてあなたがたに必要なことをこの手紙で伝えますという挨拶です。

6、神の真実

9節は今日の中心聖句ですが、これはこの手紙全体の中心聖句、テーマでもあります。神は真実なかたですので、人間が何かをするというよりも、神の真実が全ての中心です。神の真実とは何でしょうか。それは、あなたがたを神が召すことです。人間が自分で何かを信じたとか行ったからではありません。神の召しによって全てが始まります。私たちのすべてもそうです。真実は原語でピスティスで、神が主語の時は真実と訳されて、人間が主語の時は信仰と訳されます。神が尽くされる真実に対する、人間の応答は信仰です。そして神の真実によって、神に召されて、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただきます。その恵みへの感謝、応答としてどの様な生き方が求められるのでしょうか。それは自己中心に生きるのではなくて、恵みによってはいらせていただいた、主イエス・キリストとの交わりを大切に、いつも聖霊に導きの中で主イエス・キリストと交わり、神と共に平安の中に生きることです。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、あなたはあなたの真実によって、私たちを召し、御子、主イエスキリスの十字架の贖いによって、主イエスとの交わりにはいらせてくださいますから有難うございます。私たちはあなたの真実によって聖徒とされる者ですが、聖徒に相応しく生きるのが難しいものです。聖霊の力強い導きによって、主イエス・キリストと交わりに生きる者としてください。恵みによって私たちに与えられている賜物全てを用いてキリストのためのあかしをする者とならせてください。また教会に連なるお一人お一人をお守りください。この時の全てをも用いてあなたの御心がなります様にお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。