十字架の福音

2020年4月26日
コリント人への第一の手紙1章10~17節

主の御名を賛美します。先日、遅ればせながら1年前に映画で公開された「飛んで埼玉」を家で家族で見ました。埼玉を自虐的に描いたものですが、人間は自分を何かと他の人と区別して対立したり、劣等感を抱いたり、優越感に浸ったりするものです。映画で埼玉は都会度が東京、神奈川の下で千葉のライバルとして描かれていました。単純に楽しむためには面白いものです。とても人気になったということは、冗談半分ですが誰もが共感できる部分があるからです。今日の聖書個所はその様なことが冗談ではなく本気だったのかと思います。

1、争い

今日からこの手紙の本題に入ります。手紙の前半の6章迄はパウロからコリント教会へのお勧めです。そして後半の7章からは後はコリント教会からパウロへの質問に答える質疑応答の内容です。一番初めのテーマは、11節にある様に「争い」の問題です。この手紙の中でも一番長く書かれているテーマで、ここから4章の終りまでずっと争いの内容が続きます。人が集まる所には、教会に限らずに残念ながらどこでも「争い」があることが多いものです。争いを10節では「分争」と言います。

パウロは内容を書く前に先立って、10節で、「さて兄弟たちよ」、11節で、「わたしの兄弟たちよ」と呼びかけます。それは教会に集う人たちは、9節にあった様に、皆が神に召されて、御子、主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいた兄弟姉妹であることをまず覚えることです。

そしてパウロはこれから書く内容を、主イエス・キリストの名によって勧めるということは、主イエスによって示された内容です。そして3つのことを勧めます。それは①「みな語ることを一つにし」、②「お互の間に分争がないようにし」、③「同じ心、同じ思いになって、堅く結び合ってほしい」です。「言うは易く行うは難し」ですが、この3つはどの様にしたら実行出来るのでしょうか。

パウロはコリント教会に争いがあることをクロエの家の者たちから聞いています。クロエの家の者たちはどういう人達か良く分かっていませんが、コリント教会からパウロが今手紙を書いているエペソに来た様です。

2、争いの内容

争いの内容がどういうものかと言いますと、コリント教会の人達が、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることです。映画の「飛んで埼玉で」、東京、神奈川、埼玉、千葉が争っている様です。これはどういう意味なのでしょうか。アポロは使徒18:24にある様に雄弁な説教者でパウロの後にコリント教会に行きました。ケパは12弟子のペテロのアラム語の名前です。ここに名前の挙げられた4人が派閥争いをしていたのではありません。この4人には別に神学的な対立等はありません。パウロとケパにはガラテヤ2章で少し考え方に違いがありましたが派閥争いはしていません。つまりこの争いはこの4人が争っていたのではありません。コリント教会の人達が4人の名前を勝手に掲げて争っていたようです。何を争っていたのでしょうか。

 コリント教会の人達がどの様にこの4つのグループに分かれたのか詳しくは分かりません。しかしパウロにつくという人達は、パウロはコリント教会の創立者ですので、歴史や伝統を重んじる人たちのグループかも知れません。

アポロはパウロの後に来た雄弁な説教者ですので、社会的に地位の高い人や新しいものが好きな人の集まりかも知れません。パウロにつく人と仲の悪い人はアポロのグループに入ったかも知れません。またケパにつく人はユダヤ人の伝統を重んじる人のグループでしょうか。「キリストに」という人は、一見正しそうに聞こえますが、グループに分かれて争うこと自体が間違っていますので、単なるグループ分けの口実の一つに過ぎない感じがします。コリント教会に限らずに、この様なグループ分けは、どの人間の集まりにも多かれ少なかれあるものです。特に何か思想的な違いがあるのではなくて、ただ単に人の好き嫌い等でグループに分かれることも多いものです。

3、バプテスマ

人の集まりにある派閥争いの様なものはどこにでもあることです。パウロはこの問題をどの様に解決しようとするのでしょうか。パウロの解決策の一つ目はバプテスマ、洗礼です。パウロはクリスポとガイオとステパノの家の者たちにはバプテスマを授けたけれど、それ以外には授けたことがない、と言います。なぜここでバプテスマが出て来たのでしょうか。コリントを含むギリシャを中心としたヘレニズムの世界では、バプテスマを授ける人と、受ける人との間に特別な関係が生れると誤解する人もいた様です。ですからパウロは14節で、わたしは感謝しているが、余り多くの人にはバプテスマを授けたことがない、と言いいます。

その理由は、15節で「それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためです」。他の人だけではなくて自分でも、私はこのコリント教会を創立したパウロ大先生からバプテスマを受けたんだぞ、と言わせないためです。

現代でもその様なことを言う人はいます、私はあの有名な何々大先生からバプテスマを受けたんですとか、あの有名な何々教会でバプテスマを受けたんです、という人です。これは決して私が、どうせ私なんかと言った妬み、ひがみで言っている訳ではありません。バプテスマはクリスチャンとして新しく生まれ変わる儀式ですので、どこで誰から受けたのかを記念として大切にすることは良いことです。しかし有名な何々教会で、有名な何々先生からバプテスマを受けたから聖霊を沢山、濃く与えられて、強い信仰が与えられるというものでもありません。また逆もありません。

パウロは、「パウロにつく」という人達に対して13節の終りで、「あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けた」のかと問います。有り得ないことです。私もバプテスマを授ける時には、ホーリネス教団の式文通りに、「父と子と聖霊とのみ名によって、あなたに洗礼を授けます」と言います。三位一体の神のみ名によってです。そしてバプテスマを受ける人はバプテスマを授ける人ではなくて主イエス・キリストと一体にされます。主イエスが罪のために十字架で死なれた様に、全浸礼でバプテスマを受ける人は水の中に沈んで罪に死にます。そして主イエスが十字架の死から三日目に甦らされた様に、水の中から起き上がって新しく生まれ変わります。

全ての人の罪の赦しのために十字架につけられたのは主イエスだけです。ですので、パウロは、13節で「パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか」と問います。バプテスマは十字架につけられた主イエスと一体となるための儀式です。

パウロはこの1章でも主イエス・キリスト、つまりイエス・キリストが主であると何度も繰り返して語っています。そして主イエスと一体とされたクリスチャンはキリストの身体である教会の一員として組み入れられます。キリストの身体である教会員が争って分かれることは、キリストの身体を引き裂く行為です。そのことをパウロは13節で、「キリストはいくつにも分けられたのか」と問います。キリストの身体を引き裂いて、争っている教会の働きが祝福されるはずがありません。

パウロは10節で3つの勧めをしました。どうしたら出来るのでしょうか。それはバプテスマによって兄弟姉妹はキリストの同じ一つの身体とされたことを覚えて、聖霊の導きに従うことです。同じ一つの身体ですから口は一つで、語ることを一つにします。また同じ一つの身体ですから分争がないようします。同じ一つの身体ですから、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合います。

4、十字架の福音

その様に大切なバプテスマですが、17節でパウロは「いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではない」と言います。これはパウロがバプテスマを授けることを軽く見ていたのではありません。それは役割の違いです。バプテスマを授けるには、それなりの学びが必要です。

しかしパウロはキリストがわたしをつかわされたのは、福音を宣べ伝えるためであると、自分の召しをはっきりと自覚しています。この前のローマ人への手紙の目的も、1:15で「福音を宣べ伝えること」と書いてありました。確かにパウロが書いた手紙を見ると福音を宣べ伝える賜物が与えられているのが分かります。

しかもパウロの召しは、福音を知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためです。ここで言う知恵は哲学や詩等の人間的な知恵のことですが、しかしこれは少し不思議なことです。22節にあります様に、「ギリシャ人は知恵を求める」ものです。ソクラテスやプラトン等ギリシャ哲学は有名です。そうであれば知恵を用いた方が、効果的なのではないかという考え方もあります。

現代でも伝道を拡大するために教会は色々な知恵を使うというか工夫をします。キリスト教に興味を持って貰うために、コンサートを開いたり、色々なイベントを行って人が集まる様にしています。説教者も色々な工夫をして説教を何とか分かり易く楽しく聞いて貰おうとしたりするものです。それらは決して悪いものではありません。

しかしパウロは知恵の言葉を用いません。パウロはパリサイ派の名門ガマリエルの下で学んだエリートですから、使おうと思えば知恵の言葉を使えたはずです。むしろ知恵の言葉を使うのは得意で、知恵の言葉を使った方が効果的に話せたと思います。そして知恵を求めるギリシャ人の関心を引くことが出来たことでしょう。なぜパウロはそうしなかったのでしょうか。それはそうすると知恵を求めるギリシャ人の関心がパウロの知恵に引かれてしまうからです。パウロの知恵だけを聞くことによってキリストの十字架を弱めて無力なものとしかねません。コース料理で前菜でお腹が一杯になってメインの料理を味わえないのでは本末転倒です。逆に言えば、メイン料理を引き立てる様な前菜であればあった方が良いものです。

それは主イエスがこの世に来られる前に道備えをしたバプテスマのヨハネの働きです。主イエスの前では自分は姿を消して引継ぐ働きです。その様にして辿り着く福音のメイン・ディッシュは何かと言えばキリストの十字架です。争いの解決策の二つ目は何と言っても十字架です。解決策のバプテスマと十字架は別々のものではなくて、バプテスマは十字架に預かるものですから一体のものです。キリストの十字架によって、争いを含めた全ての罪が赦されて、永遠の命が与えられ、この世に於いても、永遠の命を持つ者として、聖霊の力によって恵みの中を生きる者とされることが福音です。争いは十字架で死んだはずの罪がゾンビの様に生き返った姿です。十字架の福音を受け入れた者に相応しい行いではありません。パウロも人間的な知恵は使いませんが、神の知恵は使います。この手紙でも中心は十字架ですが、十字架に辿り着く前には今日の箇所でも争いといった人間の罪等、色々なテーマを扱っています。

日本でも平均的な日本人はメイン・ディッシュの十字架の福音をいきなり出されても、良く分からないので口にすることが出来難いものです。そういう意味では、日本人にはメイン・ディッシュの前に、前菜やスープに相当する神の知恵が必要です。そして十字架の福音を受け入れて理解した者は、聖霊の導きに従ってキリストの身体を裂く争いを避けて、堅く結び合おうとするものです。今のこの困難な時を、聖霊の力によって兄弟姉妹と一つの身体として堅く結び合って歩ませて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、あなたは恵みの十字架の福音によって私たちを救ってくださいますから有難うございます。そしてあなたは私たちを一つの主イエス・キリストの身体である教会の一員として組み入れられます。教会に集う者は一つの主イエス・キリストの身体である兄弟姉妹であることを覚えて、みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合うように、お導きください。教会に連なるお一人お一人をお守りください。特に困難を覚えておられる方々をお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメ