神の知恵、神の霊

2020年5月10日
コリント人への第一の手紙2章1~16節

主の御名を賛美します。私たちは今、集まっての礼拝を出来ませんので、人に会っての伝道も出来ません。しかしこの様な時であるからこそ、ITを使った伝道方法等を色々と考える良い機会であると思います。

私たちは伝道をする時に、出来る限り聖書に忠実にと行いたいと思うと同時に、普段教会に来られない方々に興味を持って貰いたいと思って色々な工夫をしたりします。その様な時にはどの様なバランスを取る必要があるのでしょうか。御言を聞かせて頂きましょう。

1、十字架につけられたイエス・キリスト

パウロは今日の箇所も、1:11にあるコリント教会にある「争い」の問題を解決するために書いています。先週は、コリント教会の人たちに自分たちが救われた時のことを思い起させました。神は神のみまえに誇ることがないために、この世的には愚かな、弱い、無きに等しい、「3低」の者を敢えて選ばれました。

ですから自分を誇って争うのではなくて、十字架によって救われた者に相応しく、主を誇ることによって一致しなさいと勧めました。今日はパウロ自身がコリント教会で初めに伝道した時のことを思い起させて、福音に立ち返らせようとします。

パウロはコリントで、十字架につけられたイエス・キリスト以外のことは、何も知るまいと決心しました。パウロは自分が語るまいと決心したのではなくて、知るまいと決心しました。それはコリント教会では、自分を誇る様な話には聞く耳は持たないということです。

十字架につけられたキリストのあかしだけを聞くと決心しました。パウロはコリント教会の多くは3低であると言いましたが、決してこれは上から目線で言っているのではありません。パウロ自身も、弱くかつ恐れ、ひどく不安であったと、自分も3低だったと告白します。

パウロの3低は、コリントへ行く前のアテネでの宣教が上手く行かなかったという様な外的な理由というよりも、伝道者として自分を低くして謙遜に生きる姿であると考えられます。

2、神の知恵、神の力

パウロ自身はコリント教会で宣教をする時に、どの様に宣べ伝えたのでしょうか。

パウロは1節でも4節でも、すぐれた言葉や知恵、巧みな知恵の言葉によらなかったと言います。巧みな知恵の言葉による伝道方法があります。

この時で言えばギリシャの哲学を用いたり、詩を用いたりすることでしょう。現代で言うと人間の欲求を満たすことを目的としたご利益宗教的な言葉や知恵でしょうか。これを信じればあなたの望みが叶えられますとか、経済的に満たされますというものであったり、一般の人々の興味を引く音楽やエンターテイメントを中心にした伝道です。パウロが14節で「生れながらの人」と呼ぶ、人間の原始的な欲求に応えるものです。「生れながらの人」は生れが長柄町の人という意味ではありません、念のため。その様な人の知恵が中心の伝道は、人間の根本的な欲求に応えるためか、若者を中心に多くの人が集って結構な人気があったります。

多くの人が不安を抱えて生きている中で、この世的な祝福を断言することで安心感を与えるようです。その様な伝道はキリスト教のすそ野を広げるという意味では貢献しているとも言えますが、やはり人の知恵中心による伝道で伝わるものは、人の知恵中心による信仰になります。

しかしパウロは神の力による信仰となるために、語るのは人の知恵ではなくて、隠された奥義としての神の知恵です。神の知恵は奥義です。奥義は原語でミューステリオン、英語のミステリーです。

1節の「神のあかし」も神のミステリーです。神の知恵である神のミステリーとはどんなものでしょうか。

それは、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたもので、この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかったものです。それは確かにミステリーです。さらに9節では、イザヤ64:4からの引用で「目がまだ見ず、耳が聞かず、人の心に思い浮びもしなかったこと」です。

世の始まらぬ先からあらかじめ定めておかれたにも関わらず、まだ目で見えず、耳で聞こえず、人の心に思い浮びもしなかったということは、普通の人間の感覚では察知出来ないことです。

しかし、「神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」ということは、もう既に神を愛する者たちに与えられている恵みです。神の知恵、神のミステリーとは具体的にどの様なものなのでしょうか。

3、神の知恵

それは先週の十字架の言です。それはイエス・キリストの十字架は全ての人の罪の赦しのためであり、そのことを信じる者は皆、救われるということです。クリスチャンにとっては、その様なことは教会で耳に胼胝が出来る程聞いたことであって、奥義でもミステリーでも何でもないと思われるかも知れません。

しかし奥義とは得てしてそういうものかも知れません。

この手紙は西暦55年頃に書かれたと考えられていますので、主イエスの十字架から20年位は経っていますので、知識としてはコリントにも伝わっていたかも知れません。

しかし旧約聖書を知り尽くしているユダヤ人も、哲学の知恵の豊かなギリシャ人も十字架の言の意味を悟ることは出来ません。それは2千年経った現代においても同じです。それこそが奥義です。

主イエスは宣教の一番初めにマタイ4:17で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言われました。その御言こそが天国に入るための鍵です。悔い改めて、神の知恵であるキリストの十字架を素直に受け取らない限り天国には入れません。

知恵とは何かと先日改めて考えていて、知恵とは「恵みを知る」と書くことに気付きました。十字架による救いの恵みを知ることが本当の知恵です。ヘブル語で「知る」というのは単なる知識ではなくて体験することですから、実際に十字架による救いに与ることが本当の知恵です。

十字架なんて愚かであって、自分には知恵があると思う者は本当の知るべき知恵を持っていません。そしてその様に自分を誇る者は天国に入れません。自分を誇る状態の者を天国に入れないで、謙って悔改める者を救うことが奥義としての神の知恵です。

4、御霊による啓示

では奥義としての神の知恵である、キリストの十字架の意味はどうしたら悟ることが出来るのでしょうか。人間の目と耳と心では悟れません。鼻や口や手を使っても恐らく無理です。「それを神は御霊によってわたしたちに啓示してくださ」いました。御霊による啓示(revelation)が必要です。

ある人の心の中の思いは、その人の霊、心以外には分かりようがありません。それはそうです。他の人の心の中の思いはある程度は想像出来ても、正確には分かりようがありません。それと同じ様に、神の思いである神の知恵も、神の御霊以外には、知るものはありません。

ところがキリストの信仰を持つ者は、この世の霊ではなくて、神からの霊である聖霊を受けます。聖霊を受ける者は、受けた聖霊によって、神から賜った恵みを悟る、知ることが出来ます。知恵です。ですから12:3にある様に、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということができ」ません。信仰を持つ人は皆、神から啓示を受けます。

一昨年、茂原教会でもご高齢の男女が受洗されました。当初は人間的な視点から見ると、本当に信仰を持つことが出来るのだろうかという様な思いもありましたが、正に聖霊による啓示によって導かれたのだと思います。

人間的な知恵が中心の伝道ですと、神の思いや神からの恵みを十分に悟ることが出来なくなってしまうのではないかと思われます。ただ私たちは自分たちの遣り方だけが正しいと思うのではなくて、多くの人に伝道するための工夫は考えて行く必要があります。何事にもバランスが大切です。

5、御霊の教える言葉

パウロは自分が御霊による啓示を受けたことを他の人に語りますが、どの様に語るのでしょうか。御霊によって啓示されたことですから、人間の知恵が教える言葉は用いません。御霊の教える言葉を用います。御霊の教える言葉とは具体的にどの様なものでしょうか。それは御霊に霊感(inspiration)された神の言です。それは聖書の言葉です。

聖書の記者たちは聖霊に霊感されて、導かれて聖書を記しました。

ですから聖書は霊感された神の言です。霊の事柄は霊の言によって説明します。

この世の知恵を多く持っている人でも聖書は神からの霊によって読まないと理解することが出来ません。生まれながらの人は、神の霊を受けていませんので、神の御霊の賜物である十字架の言を受け入れられません。それは、生まれながらの人には十字架の言は愚かなものだからです。

しかし神の霊を受けている霊の人は、すべてのものを理解して判断します。なぜかと言いますと、そこに照明(illumination)が働くからです。照明は電気の照明器具のライトが明るく光を与えて見易くなる様なものです。聖書を書く記者に霊感として働かれた聖霊が、今度は聖書を読む人に照明を与えて聖書の内容が分かる様にしてくださいます。

聖書は聖霊の啓示を受けた記者が、聖霊に霊感にされて書いたものです。後は読む人が聖霊の照明を受けて読んで判断するなら、御心を知っているので、だれからも判断されることはありません。しかし聖霊の照明を受けないで聖書を読むのは、ライトを消した真っ暗闇で聖書を読む様なものです。何が何だか分からなくなってしまいます。

16節の「だれが主の思いを知って、彼である主を教えることができようか」はイザヤ40:13の引用ですが、勿論、誰も私たち人間が主の思いを完全に知って、主を教える様なことは出来ません。

しかし私たちは聖霊を与えられている者としてキリストの思いを持っています。

また聖書を通して日々、キリストの思いを学ぶ者です。争いはキリストの身体である教会を引き裂くことであって、キリストの思いとは全く異なるもので、生まれながらの人の思いから出て来ることです。

私たちは神の力による信仰に生きる者です。神の力によって争いに打ち勝って、堅く結び合う者とさせて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはパウロの手紙を通して私たちに奥義としての神の知恵を知らせてくださりありがとうございます。あなたは聖霊の働きによりにパウロに啓示を与え、霊感によりこの手紙を書かせられました。この手紙を読む私たちに照明を与えてください。

そしてこの手紙を読む私たちが、神の知恵である十字架の言を受け入れて救われます様にお導きください。またあなたの御心を十分に理解してあなたの御旨に従って、教会での争いがないように、堅く結び合える様にお導きください。どうぞ教会に連なるお一人お一人をお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。