神の建物

2020年5月24日
コリント人への第一の手紙 第3章10~17節

主の御名を賛美します。時々ですが欠陥住宅の問題を耳にすることがあります。特に最近は地震等の災害が多く発生していますので、建物に問題がある場合には、災害等を通して問題が明らかになることがあります。これは建物だけではなくて、私たちの人生も同じかも知れません。普段は隠れていても、いざという時に明らかになるものです。

1、土台

パウロは先週の9節で、コリント教会を含む全ての教会は神の畑であり、神の建物であると言いました。先週は前半の、私たちは「神の畑であり」、神が私たちを成長させて下さることを聞きました。今日は後半の、私たちは「神の建物である」ことの内容です。

パウロは神の建物であるコリント教会をどの様に建てたでしょうか。神から賜った恵みによって行いました。それは「主から与えられた分に応じて仕える」(5節C)ことです。それは主から自分に与えられた賜物を良く理解して、分に応じて忠実に仕えることです。

そして熟練した建築師にように、土台をすえました。土台は建物の基礎となる大切な物ですから、熟練した建築師にようにとは、土台をしっかりとしたものにしたということです。具体的に土台をどうしたのかというと、土台をイエス・キリストにしました。

これは2:2で、パウロが十字架につけられたイエス・キリスト以外のことは何も知るまいと決心した通りです。土台をイエス・キリストにしたことは、マタイ7:24~27で主イエスが語られた、岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人の話を思い起こさせます。

雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹くと、岩の上の家は土台がしっかりしているので倒れませんが、砂の上の家は土台が脆いというか無いので倒れてしまいます。その様に何を土台にして建物を建てるかによって、その家の強度は大きく変わって来ます。

土台をイエス・キリストにしたことの効果は後で出て来ます。そしてパウロがすえたイエス・キリストの土台の上に他の人が家を建てます。家とはどの様な物でしょうか。土台の上に建てるのは神の宮です(16節)ので、家は神の宮である教会です。

そして神の宮である教会はあなたがたです(16節)ので、家を建てるのは、コリント教会員一人一人です。そして家を建てる時に、気をつけることがあります。それはすでにすえられているイエス・キリストの土台以外のものをすえることは、だれにもできません。土台を変えることは、土台無理な話です。

主イエスもマタイ16:18で、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」と言われました。岩とはペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と告白した内容です。イエス・キリストを土台とする建物は教会ですが、それ以外の、例えばこの世の楽しみ等が土台となってしまったら、それは教会ではなくなってしまいます。楽しみはあっても良いのですが、あくまでも土台はイエス・キリストです。

2、建物の材料

次に土台の上に建てる建物の材料の問題です。金、銀、宝石、木、草、わらの6種類が例に挙げられます。ただ厳密に言うと、金、銀、宝石は建物の表面に装飾として飾るなら分かります。また金、銀、宝石の小さな部品なら分かりますが、建材では無いと思います。また宝石は大理石とも考えられます。

ただここではそう言った細かいことが問題の中心ではなくて、建材の質の問題です。

建材の質は、かの日に明らかにされます。かの日というのは、この世の終わりの終末の主の日です。それぞれの仕事がどんなものであるかは、火によってためされます。

火は神がその中におられる臨在を現すものです。出エジプト記でエジプトを脱出したイスラエルを夜は火の柱が導きました。また来週はペンテコステですが、ペンテコステに降られた聖霊は炎のように現れました。つまり火がためされるというのは、神ご自身が、それぞれの仕事を吟味し判断されます。

もしある人の建てた仕事を火がためした後にそのまま残れば、その人は報酬を受けます。ということは、金、銀、宝石で建てた仕事は残って、その人は報酬を受けます。今日は3つのタイプの人が出て来ますが、1番目は金、銀、宝石で神の宮を建てて報酬を受ける人です。「受ける君」です。

しかし、その仕事が焼けてしまえば、損失を被ります。ということは、木、草、わらは焼けてしまうので、その仕事をした人は損失を被ります。ここで、建材の金、銀、宝石、木、草、わらが具体的に何を現すかということは問題ではありません。

火である神の評価に耐えるものであるかどうかということです。いくら一見すると立派そうに見えても、自分の見栄えを良くするための様な、木、草、わらで作られた、張りぼてであっては火でためされたら焼けてしまいます。

それは私たちが人の目にはいくら立派に見える仕事をしたとしても、神はその本質を見定められます。そして忠実に仕事を行った者は報酬を受けますが、その仕事が焼けてしまえば、仕事をしたのに報酬を受けられませんので損失を被ります。

さて建てた仕事で報酬を受けるか、損失を被るかの違いはあるかも知れません。しかし例え、木、草、わらの仕事で焼けてしまって損失を被ったとしても、その仕事をした人自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われます。これは少し不思議な言葉です。

「火の中をくぐってきた者のように」という表現は、アモス4:11やゼカリヤ3:2にも出てきますが、火の中から命からがら逃げ延びた人のようということです。

なぜその様でも救われるかといえば、例え建てた仕事が木、草、わらであっても土台がイエス・キリストであったので救われるということです。2番目のタイプは木、草、わらで神の宮を建てて、報酬を受けられないで損失を被りますが、かろうじて救われる人です。「救い君」です。

因みにここで、木、草、わら等の材料自体が、世界中で普遍的にどこでも建物に相応しくないといっているのではありません。日本の伝統的な建物は木で作られていますが、立派な物が多くありますし、藁ぶき屋根の物もあります。この当時のイスラエルの民家の屋根にも木も多く使われていました。

ただ神の宮を建てるのに、木、草、わら等の材料は相応しくはなくて、最高の金、銀、宝石が相応しいということです。この御言の影響か日本にも金閣寺、銀閣寺といった寺もあります。

3、神の宮

先程から出てきていますが、あなたがたであるクリスチャンの集まりは教会であって神の宮です。これは6:19にある、自分のからだは聖霊の宮というのとは少し違います。6:19が言っているのは、一人一人のクリスチャンのからだが聖霊の宮と言っています。

しかしここでは、聖霊の宮であるクリスチャンの集まりである教会がまた神の宮です。

一人のクリスチャンは聖霊の宮で、聖霊の宮であるクリスチャンの集まりは神の宮です。神の宮ですから神の御霊が宿っています。

それを知らないのか、と問うということは、次の18節で自分がこの世の知者だと思うなら当然知っているはずだということ、またパウロ自身も教えたはずだという含みがあります。そして、もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすと言います。

ここでパウロが、「人が神の宮を破壊するなら」とは具体的にどの様な行いを指しているのでしょうか。それは、ある人は「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」と分かれて争って分争することです。教会の中で争うことは神の宮を破壊することで、神はその人を滅ぼすと言います。とても厳しい言葉です。

教会を建て上げるのに、木、草、わらのような仕事をした人は、行った仕事は焼かれて損失を被りますが、その人は一応救われます。しかし教会の中で争う者は滅ぼすと言われます。その理由は、なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからです。

神の宮が聖であるということは、旧約聖書を読むとその意味が良く理解できます。

神の宮のモデルは幕屋です。神の住まわれる幕屋の聖さを保つために、出エジプト記やレビ記等で事細かく指示されています。

イスラエルは聖なる神の宮である幕屋を汚すようなことをすれば、自分の命を落とすことを知っていましたので、清めの儀式等を事細かく慎重に神経を張り巡らして行いました。

しかし神の宮である教会に無神経に争いを持ち込む者は、イスラエルが神経質に清めていた幕屋に汚れを巻き散らすようなものです。

それが如何に無神経な行いであるかは旧約聖書を読むと良く分かります。そして新約のマルコ3:29にも「聖霊をけがす者は、永遠の罪に定められる」とあります。3番目のタイプは神の宮を破壊して滅ぼされる者です。「滅ぶ君」です。

4、結論

今日は3つのタイプの人が出て来ました。1番目は金、銀、宝石で神の宮を建てて報酬を受ける人、2番目は木、草、わらで神の宮を建てて、報酬を受けられないで損失を被りますが、かろうじて救われる人、3番目は神の宮を破壊して滅ぼされる者です。

コリント教会は果たしてどのタイプの状態だったのでしょうか。1番は例えいたとしても極少数です。それでは2番かというと微妙なところですが、手紙の内容から考えると3番に限りなく近かったのではないでしょうか。それは、1、3節にある様に、肉に属する者ように行動していました。それはまだ肉の人だからです。

パウロによってイエス・キリストの土台がすえられていますので、所属としては霊に属しているはずなのですが、その性質は肉に属する者の様で、パウロのすえた土台が見えなくなっていました。だからこそ、パウロは必死に説得をしようとしてこの手紙を書きました。

1:9で、神に召され主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたにも関わらず、そこから外れつつあるのがコリント教会でした。これはコリント教会だけではなくて、現代の私たちにも起こることです。特に現在は、コロナウィルスの問題でクリスチャン同士の交わりが難しくなっています。

私たちに出来ることはパウロの様に、全ての人の救いのために、自分に与えられた分に応じて仕えるのみです。教会は人の力で動かすものではなく、神の宮、建物であり、御霊の宿るものです。そして私たち自身が神の宮です。恵みによって神の宮とされたものとして、聖霊の働きに素直に従って自分に与えられた分を果たさせて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは主イエス・キリストを土台として教会を建ててくださいましたから有難うございます。私たち一人一人は教会を建て上げる者であり、神の宮です。

恵みによって神の宮とさせられる私たち一人一人が、聖霊の導きによって、あなたに与えられた分に、しっかりと応じて仕え、教会を支える者とさせてください。そして、かの日には、あなたから報酬を受ける者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。