純粋で真実なパン

2020年6月21日
コリント人への第一の手紙5章1~13節

主の御名を賛美します。礼拝説教に相応しくない例かもしれませんが、芸能人等の有名人のスキャンダルというと不倫が圧倒的に多い様に感じます。それによる代償が大きいと分かっていても後を絶ちません。この様な問題の対応はどうしたら良いのでしょうか。御言を聴かせて頂きましょう。

1、不品行

パウロはコリント教会の問題の解決のために、この手紙を書いています。一つ目の問題は1~4章の争いの問題でした。5章は二つ目の不品行の問題です。不品行の言葉が5回使われていますが、原語では「ポルネイア」と書かれていて、ポルノの元になった言葉で性的な不品行です。

ローマ人への手紙第1章の内容を覚えておられるでしょうか。神の存在を認めない者が、初めに犯す罪は、神以外のものを神とする偶像礼拝で、その次に来る2番目が性的不品行でした。そして3番目が争いや高慢でした。つまり3番目の罪である争いや高慢のあるコリント教会には、その前の2番目の罪の性的不品行の問題があります。

パウロは先週の4:20で、神の国は言葉ではなく、力、実際の行いであると言いましたが、これは一体どうなっているのかということです。その不品行の具体的な内容は、「ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということ」です。聖書によって訳し方が違いますが、原語では「ある人が父の妻を持っている」ということです。

色々な意味の可能性が考えられますが、この妻はある人の実の母ではなくて、父の後妻、若しくは父に複数の妻がいるのであれば義理の母等です。そしてこの人の父はもう亡くなっているか、若しくはこの妻と離婚したと思われます。この妻については何も書かれていないので、妻は信仰者ではないでしょう。

聖書は血縁関係が無くても、父の妻と関係を持つことを禁じています。これはクリスチャンに限らず、異邦人の間にもそのようなことはない程の酷いことであるとパウロは言います。茂原教会でその様な問題に関わっている人はいないと思います。

しかしローマ人への手紙にあった様に、神以外のものを神とする偶像礼拝に陥る者が、次に犯す罪が性的不品行です。民数記で荒野をさ迷っていたイスラエルも25章でモアブの娘たちの罠に陥りました。有名人の不品行の問題は連日、マスコミ等で報道されています。

さらに不品行のことを知っているコリント教会は、特に何をするでもなく、性的不品行の次に来る、3番目の罪の、高ぶって高慢になっています。しかしパウロはそんな不品行を行う者は、あなたがたの中から除かれねばならないと言います。

2、戒規

除くとは具体的にどういうことかと言いますと、用語から言って、教会の戒規として教会から除名することです。そしてあなたがたは教会員を除名することを思って、悲しむべきではないか、と問います。教会として不品行な者をきちんと除名もしないで、逆に高ぶって誇っているのは、よろしくありません。

この後の3~5節の御言は少し分かり難いので、ご一緒に考えたいと思います。まずパウロの言う、「からだは離れていても、霊では一緒にいる」とか、「わたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まる」というのはどういうことでしょうか。パウロのいるエペソと、コリントは4百キロ位離れています。

パウロの霊は幽体離脱の様に肉体を離れてコリントに行くことが出来るのでしょうか。

これはその様な物質的なことを言っているのではありません。

そうではなくて、距離的には離れているけれど、自分はコリント教会のゴッドファーザーとして、いつもコリント教会を気遣って寄り添い、心は一緒にいるということです。

そしてパウロは「そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている」というのは、パウロの中ではすでにその行いをした者に対する対処方法を決めているということです。

但し、「あなたがたも共に主イエスの権威のもとに集まって」ということは、これはパウロが一人で決めることではなくて、コリント教会として決定すべき内容であるということです。

そしてパウロのさばきの内容は、「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまう」ことです。パウロの中ではすでに決めていることですが、まだ実行はされていません。

この御言を読んだ時に思い浮かんだことは、不謹慎かもしれませんが、以前にオウム真理教が自分たちに取って都合の悪い人たちを殺すことをポアと言っていたことです。彼らの理屈ではそうすることによって、さらなる悪徳を積ませないためとのことでした。ここの御言はどういうことを意味しているのでしょうか。

「サタンに引き渡す」とはどういうことでしょうか。「サタンに引き渡す」という言葉はここ以外には、第一テモテ1:20だけに出て来ます。そこには信仰の破船に会ったヒメナオとアレキサンデルに、「神を汚さないことを学ばせるため」と書かれています。

つまり教会を除名するのは、サタンの支配するこの世に引き渡して、その困難の中で悔い改めに導くためです。そしてそれは「その霊が主のさばきの日に救われるように」です。ホーリネス教団でも戒規がありますがそれは罰を与えることだけを目的とするものではありません。戒規を受けた者が立ち直って復帰できるように、必要な教育と配慮をすることになっています。

3、パン種

パウロは戒規を行う理由を、聖書に良く出てくるパン種、イースト菌の譬えを用いて説明します。パン種の性質は粉のかたまり全体をふくらませることです。

パン種はマタイ13章の天国の譬では天国がふくらんで行く良い意味で使われていますが、それは例外で基本的には発酵して悪が広がる悪い意味で使われます。イスラエルは奴隷の地であるエジプトを脱出したことを記念して過越しの祭りを祝いますが、キリストは過越しの祭りでほふられる小羊として十字架に付けられました。

過越しの祭りでは、エジプトを脱出する時にパン種を入れてふくらませる余裕がなかったことに基づいてパン種を入れないパンを食べます。過越しの小羊であるキリストが十字架に付けられたのですから、コリント教会は悪のないパン種のない新しい粉のかたまりになっているはずなのに、まだパン種が残っています。

現代においてもパン種である悪は巷に溢れていて教会にも隙を見て入り込んで来ようとします。パウロは不品行、悪意、邪悪等のパン種を取り除きなさいと言います。本当に慎重に取り除いてゆく必要があります。

4、純粋で真実なパン

そしてパン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないかと言います。ところで、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもっての祭とは、どの様なものなのでしょうか。出エジプト記には、荒野を旅していたイスラエルに天からのパンであるマナが与えられました。

その意味ではマナは純粋で真実なパンと言えますが、現代にはマナはありません。

現代の私たちを養うために毎日食べる純粋な真実なパンの一つ目は神の言である聖書の御言です。祭をしようというのは、過越しの祭の時であるイースターの前の主イエスが十字架に付いた金曜日だけに行うということではありません。

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)の御言通りに毎日が喜び祝う祭です。毎日が過越しの祭としてパン種を取り除きます。また純粋で真実なパンは主イエスご自身でもあります。主イエスの身体であるパンに与かる聖餐式によって私たち自身もパン種のない者であることを深く味って覚えましょう。

5、内の人のさばき

パウロはこの手紙の前にも手紙を書いていて、それが誤解を生んだようなので説明をします。パウロは前の手紙で「不品行な者たちと交際してはいけない」と書きました。その時にコリント教会は不品行な者とは教会の外の人たちのことで、パウロは教会の外の人たちと交際してはいけないと言っていると考えました。

しかしパウロはそういう意味で言ったのではありません。もしそうだとしたらクリスチャンはこの世から出て行かなければなりません。実際にその様に考えるクリスチャンもいます。しかし教会の外の人たちは神を知りませんので、なぜ不品行な生き方が良くないのかを知りません。

そこでクリスチャンはマタイ28:19に「あなたがたは行って、すべての国民を弟子としなさい」とある様に、全ての人の救いのために御言を宣べ伝える必要がありますので、関わりを持つ必要があります。ですからパウロが前の手紙で実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる教会の内の人たちとのことです。教会の中で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、交際をしてはいけないし、食事を共にしてはいけない、ということです。教会の内の人は、不品行等はいけないことを知っていながら敢えて行う者です。その様な者は除く必要があります。

勿論、除くと言っても段階的な手続きがあります。まずは他の人の問題の前に自分の目の中の梁を取り除きます。自分の中にある不品行等の悪い思い、行いを取り除きます。自分の問題を全て取り除いた上で他の人の問題があるのなら、マタイ18:15からのところのある様に、初めはふたりだけの所で忠告します。

そして、もしだめなら次にひとりふたりの証人を連れて行き、それでもだめなら教会に申し出ることになります。教会は悔い改める者には寛容であるべきですが、悪に対しては毅然とした対応を取る必要があります。それは本人を悔い改めに導いて救うためです。何でも好い加減な態度を取ることは決して本人のためになることではありません。

6、さばき

ところで4:5では、「先走りをしてさばいてはいけない」とありましたが、今回は、「内の人たちをさばくのはあなたがた」とあります。一体「さばいてはいけない」のでしょうか、それとも「さばく」必要があるのでしょうか。まず私たち人間は全能の神ではなく、不完全な者ですので、全てを知ることが出来ません。

ですから、その様な謙虚な思いで、良く分からないことを、「先走りをしてさばいてはいけ」ません。しかし日々、純粋で真実なパンである御言に与かり、主と交わり、聖霊の導きの中で、間違いに気付くなら不品行等を取り除きます。また他に人に必要なアドバイスを行います。

他の人に注意をする様な時には本人を責めるためではなくて、救いに与かるために、間違っていることをきちんと伝える必要があります。それは自分の正義を主張するのではなくて、あくまで兄弟姉妹を救うために祈りつつ行うことです。私たちは主イエス・キリストの十字架の恵みによってパン種のない者とさせて頂きます。

それは自分だけではなく、全ての人が純粋で真実なパンとなるためです。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは、古いパン種を取り除いて、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないかといわれます。過越しの小羊であるキリストがすでにほふられ、恵みによってパン種のない者とされたにも関わらず、私たちの中にはいつの間にかパン種が入って来ます。

しかし純粋で真実なパンであるあなたの御言を毎日食べ続け、また聖餐式によって主イエスの身体であるパンに与かることによって、私たちを純粋で真実なパンと変えてくださいますから有難うございます。感謝して主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。