神からの賜物

2020年7月12日
コリント人への第一の手紙7章1~11節

主の御名を賛美します。

キリスト教に限らず、どんな団体、グループにも、またいつの時代にも大抵、異端と極端な人たちはいるものです。フランス革命の時期に、議長席から見て右側に保守派、左側に改革派が座っていました。

そこから、伝統的、保守的な人は右翼、改革的、革新的な考えをする人を左翼、と言われて対立し合います。対立によってある程度のバランスが取れることもあります。

コリント教会の中にはどんな左右の対立があったのでしょうか。御言を聞かせて頂きましょう。

1、ふれないがよい

七章からは、これまでとは違う新しい内容になります。6章までは、1:11にありました、パウロがクロエの家の者たちから聞かされている争いの問題、5:1のパウロが現に聞くところによる不品行の問題等でした。それらはコリント教会についてパウロが他の人から聞いた問題について、パウロの側からこれはコリント教会に勧める必要があると思って伝えた内容でした。

しかし七章からは、あなたがたであるコリント教会がパウロに書いてよこした事、つまりコリント教会がこの問題についてはどうしたら良いかとパウロに質問して来た事に、パウロが答える内容です。

それは聖書の原則を私たちの普段の日常生活にいかに適用するかというとても具体的な内容です。

ですので現代を生きる私たちにとってもとても役に立つ内容です。まず7章は結婚についてです。

コリント教会からの質問の内容は書かれていませんので想像するしかありません。全体から判断するとパウロの答えの、「男子は婦人にふれないがよい」のでしょうかという質問であったと思われます。

パウロにこれまでの話の進め方を見ても、まずは相手の考えをそのまま肯定して受け止めて、そこから本質的な内容を説明して行きます。まず「男子は婦人にふれないがよい」とはどういう意味でしょうか。これは現代のセクハラの様にスキンシップをしないが良いという意味ではありません。

ここのふれるとは性的関係を持つことです。男子は性的関係を持たないがよいとはどういうことなのでしょうか。私たちは聖書を読む時に、無意識的にも現代の日本の感覚で読んでしまいがちです。

しかし聖書の内容を理解するためには、書かれた時代的、地理的背景を知る必要があります。

まずコリントの地は交通の要衝の地として発展して歓楽街となって風紀が乱れていました。そしてコリント教会員の中にも、グノーシス主義の影響を受けて、永遠に残る霊は救われたのだから、この世で滅びるからだはどんなに不品行をしても関係ないという極端な人たちがいました。

一方の極端にどんなに不品行をしても関係ないという人たちという革新的な意味で左翼とすると、不品行に対する反動もあって正反対の対極には超禁欲的に性行為は一切しないが良いという右翼の人たちがいました。それは結婚をしている人も含めてです。

今回、その保守的、右翼的な考えの人たちが、独身のパウロに性行為はしないがよいのですねと手紙を書いたようです。パウロはまずそれを認めてそうですよと返事をしました。現代の人が読むと驚くべき内容です。

2、不品行に陥ることのないために

しかし人間の現実を良く知っているパウロは、5章、6章にあった様な不品行に陥ることのないために、そして品行方正によって神の栄光をあらわすために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つが良いと結婚を勧めます。

2節を読むと何となく、ああ結婚というのは不品行に陥ることのないためにする、不品行への予防策としてすることなのかと感じるかも知れません。しかしそうではありません。

パウロはここで結婚とはどういうものかということを語っているのではありません。

ここでは5章からの続きとして、不品行に陥らないための予防策の意味も結婚にはあると言っているのであって、結婚はそれが全てだと言っているのではありません。

また「男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つ」ということは一夫一婦制を勧めています。一人の夫が複数の妻を持つ一夫多妻制ではありません。

また男子も婦人も同じように書いているのは男女平等ということです。

3、結婚している人

そしてまず結婚している人たちに対する勧めです。

6:19に「自分のからだはもはや自分自身のものではない」とありました。

一つ目の理由は聖霊が宿る聖霊の宮だからでした。

そしてもう一つの理由は結婚する人は、6:16に「ふたりの者は一体となる」とあった様に、自分のからだは自分だけのものではありません。ですから、自分だけの自由にすることはできません。

妻のからだを自由にできるのは夫であり、夫のからだを自由にできるのは妻です。

結婚はふたりが一体となって、それぞれが自分自身を相手に奉げるものです。

自由については先週もお話しましたが、自由は何でもかんでも自分だけの好き勝手にして良い事ではありません。相手のことを思い遣り自分の役割と責任をよく考えて行動することです。GUは自由。

ですから結婚するのなら、夫は妻にその分を果し、妻も同様に夫にその分を果して互に拒んではいけないことです。結婚は自分の願いだけを求めると上手く行かなくなり、相手の願いを求めて行くと自分も幸せになるものです。

しかしそこには例外のことがあります。祈に専心するために、しばらく相別れることはさしつかえありません。しかしこれには条件があります。一つ目は「合意の上で」です。一人だけが祈りたいからというのではだめです。二つ目は「祈に専心するために」という神と交わる大切な目的のためだけです。

聖霊の宮であるクリスチャンに取って、祈はそれ程に最優先される事です。

三つめは「しばらく相別れ」であって、「それからまた一緒になること」です。

ここの「相別れ」と訳されている言葉は、相手を自由にする自分の権利を主張しないという意味ですので、別居することではありません。

ではこの「しばらく」というのは、どの位の期間なのかというと聖書には書かれていません。

ユダヤ教の中では、進歩的な左翼のヒルレル派は1週間と言い、厳格な右翼のシャンマイ派は2週間と言います。また律法の研究に没頭している間は30日間でも良いということになっています。

この様な条件が必要なのは、「そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない」からです。

4、わたし自身のように

6節の文章は少し難しくて問題のある個所です。口語訳・新改訳では「以上のことは」と訳していますが、現語には「以上」という言葉はありません。最近では6節は7節aのことを指しているのではないかと考えられる様になっています。

それはパウロとしては、「みんなの者がわたし自身のようになってほしい」ということです。パウロ自身のようになるとはどういう意味でしょうか。それは神に忠実に生きて、婦人にはふれないで、不品行もしないことです。新共同訳は「独りでいてほしい」と訳しましたが、新しい聖書協会共同訳ではその訳はなくなりました。

パウロにとって大切なのは神の奉仕に集中することで、結婚するか独身かということではありません。しかし主イエスやパウロが独身であったこともあってカトリックでは神父は独身でいることが求められます。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしています。

これはある人は独身でいて、他の人は結婚しているということでしょう。

私たちは神からそれぞれ色々な賜物、賜る者をいただいています。それは仕事の賜物、家事の賜物等もありますが、ここでいう賜物はどういうものでしょうか。それは独身の賜物、結婚の賜物と言えます。

独身の賜物とは、異性にふれなくても不品行をせずに生きる賜物です。

結婚の賜物とは、結婚相手に自分のからだを奉げて生きる賜物です。

賜物は人それぞれで違うこともあります。

5、未婚者とやもめ

次に未婚者たちとやもめたちについてです。この未婚者とやもめは男も女も含めてです。

そして口語訳は「わたし、パウロのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい」と言います。これは少し誤解を与える訳かと思います。口語訳ですと結婚するよりも独身の方が良い様に聞こえます。

原文では「もし私のように留まっているなら、彼らにとって良い」という意味です。

それは結婚するのと独身でいるのと、どちらが良いということではありません。それは24節にある、「各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである」ということです。

そして神からの賜物を用いて生きて行きます。独身の賜物をいただいているなら、家族がいないのでパウロのようにその時間を神の奉仕に充てることが出来ます。結婚の賜物をいただいているなら、夫婦の問題や子どもを含めた家族の問題等を自分自身の体験を通して学んだことなどを、他の人の問題に対して生かすことが出来ます。

ですから独身でいることと結婚することで、どちらが霊的に優れているとか信仰的ということはありません。神からどちらの賜物をいただいているかを知って、その賜物を生かすことです。コリント教会には独身の賜物をいただいていないにも関わらずに、その方が信仰的だと考えて禁欲的になる人もいたようです。

しかし、それでもし自制することができないで、情の燃えるのであれば、それは独身の賜物をいただいていないことです。そうであればそのことを素直に認めて結婚するがよいと勧めます。私はロンドンでの3年間だけ一人暮らしをしましたが、余りの料理の下手さに別の意味で独身の賜物はないと思いました。

しかし独身の賜物が無いからと言って、それイコール結婚の賜物があるかというと、これはまた別の問題でもあります。賜物はいただいていても信仰がなければ生かすことが出来ないからです。

6、離婚

最後は離婚についてです。命じるのはパウロではなく主である、というのは福音書で主イエスが語られた御言であるということです。結婚している者たちは、マタイ19:6で、「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」ものです。

ですから妻からも夫からも別れ、離婚を申し出てはなりません。11節の前半が括弧に入っているのは福音書には無い御言で、パウロが主の御心として適用した内容だと考えられます。それは、万一別れているなら、結婚しないでいるか、つまり再婚はしないか、それとも夫と和解するかしなさい、です。

これは当時コリント教会で、極端な禁欲主義によって夫婦でありながら、男子は婦人にふれないがよいと言って、5節のように期限を決めないで別れていることがあったようです。そのような人たちに対して、やはり独身の賜物がないからといって、他の人と再婚するのは良くないということです。

他の人と再婚する位なら和解して普通の結婚生活に戻りなさいということです。カトリック教会では、結婚は洗礼等と同じ秘跡の一つですから、ここの御言通りに原則的には、どんな理由があっても離婚は出来ません。離婚が余りにも多い現状を考えるとカトリックの制度も考えさせられることもあります。

しかし逆にカトリックの国であるフランス等は、離婚は出来ないので実質的な結婚生活をしていながら結婚をしないというのも本末転倒のような気もします。

結婚に限ったことではありませんが、他の人がどうしているかではなくて、私は神からどの様な賜物をいただいているのか、そしてその賜物によってどのように神の栄光をあらわすことが出来るのか、いつも祈って、聖霊の導きに従って歩ませて頂きましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはあなたからそれぞれ賜物をいただいているにも関わらず、他の人と見比べてしまうような愚かな者です。どうか私たちがあなたからいただいている賜物を感謝して、主の御用のために用いて、神の栄光をあらわすものとさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。