神への奉仕

2020年8月2日
コリント人への第一の手紙7章25~35節

主の御名を賛美します。昭和のステレオタイプのホームドラマというと、良く奥さんが仕事一筋の夫に、「あなたは仕事と家庭とどちらが大事なの」と問う台詞がありました。クリスチャンあるあるですと、クリスチャンが未信者の家族から、教会と家族とどちらが大事なのかと問われることもあると思います。

どの様に考えたら良いのでしょうか。御言を聞かせて頂きましょう。

1、未婚の人たちについて

7章はコリント教会からの質問内容にパウロが答える内容です。25節からはおとめのことについてです。コリント人への手紙は内容を理解するのが難しい部分が多くあります。25節からのテーマについても、口語訳はおとめのことについてと訳して、新改訳も同じ様な意味で処女のことについてと訳しています。

しかしおとめと訳されている言葉(パルセノス)は男性形で、さらにやもめも含みます。そこで、新しい教会共同訳も新改訳2017も、おとめではなくて男女を含む「未婚の人たちについて」と訳しています。

未婚の人たちについては、8、9節に纏めて結論が書かれています。

しかし未婚の人についてもう一度細かく書くということは、コリント教会で大きな問題になっていたようです。パウロはこのことについて、主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより使徒としての信任を受けている者として、聖霊によって示された意見を述べます。

さてここでコリント教会からパウロへの質問内容はどの様なものであったのでしょうか。

1節の質問から想像すると、パウロはまずコリント教会の質問内容をそのまま受入れて肯定します。

ですので、質問の内容は恐らく、26節の「人は現状にとどまっているがよい」のでしょうか、というものであったと思われます。コリント教会には禁欲的な独身主義の人がいたようです。

そこでパウロは、そうです、あなた方の言う通り、「人は現状にとどまっているがよい」と答えます。

それは先週の直前に書かれている内容で、17、20、24節で3回繰り返された内容で、召されたままの現状にとどまることです。

そして具体的に、男性が妻に結ばれているなら、つまり結婚しているなら、解こうとするな、つまり離婚してはならない。10~13節で4回言われていたことです。そして、妻に結ばれていないなら、つまり独身なら、妻を迎えようとするな、つまり結婚するなということです。

しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではありません。また、おとめが、ここはおとめで大丈夫です、結婚しても、罪を犯すのではありません。ひとりびとり賜物が違いますので人それぞれで良いのです。パウロの意見はコリント教会と同じ結論の、「人は現状にとどまっているがよい」ですが理由は違います。

2、現在迫っている危機

コリント教会は禁欲のために、現状にとどまることを考えましたが、パウロの意見は3つの理由に基づきます。一つ目は、「現在迫っている危機のゆえ」であって、「結婚する人はその身に苦難を受けるから」で、パウロは、「それからのがれさせたい」からです。

それでは、その現在迫っている危機とか身に受ける苦難とは一体どういうものなのでしょうか。

このことを考える時に、29節の「時は縮まっている」と31節の「この世の有様は過ぎ去る」を合わせて考える考え方もあります。

しかし29節からの、「兄弟たちよ」と呼びかける時には少し話題を変える時であって、また「兄弟たちよ」ですから男の信者向けの内容になります。

ですので、26~28節は一つの纏まりとして独立して考えた方が良い様に思われます。

直接的には、現在迫っている危機とは、この時にコリント教会に迫っている具体的な危機である、クリスチャンに対する迫害であると考えられます。これはコリント教会に特有の特殊な事情です。

しかしその様な危機は時代を超えて起こって来るものです。現代の直近であればコロナウイルスの危機、またもう少し広く考えますと、地震や自然災害などの危機もあります。パウロはそれらの苦難を受けることからのがれさせたいと思っていました。確かに危機の時には独り身の方が何かと身軽かも知れません。

しかし東日本大震災の後には絆を求めて婚活をする人が増えた事が話題になっていました。絆婚と言われましたが、結婚の統計の数字上では実際はそれ程には増えなかったそうですが。そう言った考え方も人それぞれです。今はコロナ婚が増えるのだろうか等と言われていますが、どうなるのでしょうか。

3、時は縮まっている

二つ目の理由の前に、男の信者向けに、「わたしの言うことを聞いてほしい」ということは、とても大切な事を話すということです。そして理由は、時は縮まっているということです。

何の時かと言いますと、これは主イエスがこの世に再び来られる再臨の時です。

そしてその時にはどの様な事が起こるかと言いますと、この世の有様は過ぎ去ります。

しかし主イエスの再臨である、この世の終わりである終末が近いことと、未婚の人は結婚はしないで現状にとどまっていることとどの様に関わるのでしょうか。

そうは言っても、実際、ここにおられる方々は私を含めてクリスチャンですが結婚をしている人が多くいます。ところが終末が近いので結婚はしない方が良いのでしょうか。

しかしパウロがこの手紙で時は縮まっていると書いてから約二千年が経っています。

パウロは何か間違った事を書いてしまったのでしょうか。

しかし時は縮まっていると言ったのはパウロだけではありません。

主イエスご自身が黙示録で「わたしはすぐに来る」と4回言われています。

それにしては二千年は長い様な気もします。神にとって一日は千年のようですが、これは時間的な意味での短さでは無いようです。これは意識としての近さ、確かさの意味の様です。

それはピリピ3:20の「わたしたちの国籍は天にある」ことをいつも意識して歩む事です。

その様に考えますと後の文章の意味も分かり易くなります。

それは「今からは妻のある者はないもののように」です。これは7章の初めの、結婚しているのに禁欲的にふれないとか、離婚して妻のないもののようにするということではありません。

結婚することをゴールインと言ったりしますが、妻を持つことを最終目的として、それだけに浸っているのではありません。そして「泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように」です。

これはゴルゴ13の様に、何があっても無表情で感情を表に出さないということではありません。泣く者も喜ぶ者も買う者も、良くも悪くも今の状態が最終的にずっと永遠に続くのではありません。終末の時にこの世の有様は過ぎ去るのですから、過ぎ去るものに捕らわれ過ぎない様にするということです。

そして「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきです」。「世と交渉のある者」は教会共同訳では、「この世を利用する人」と訳しています。この世に生きる者としてこの世を利用するのは決して悪い事ではありません。

しかし「この世を利用する人」はいつの時代もどっぷりとこの世に浸かって、この世が全てになってしまいがちです。しかし過ぎ去るものにはやはり深入りしないようにすべきです。

4、思い煩わないように

「人は現状にとどまっているがよい」3つ目の理由は、パウロは、「あなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい」からです。ここで言う「思い煩い」とはどういうことでしょうか。「思い煩い」と訳されている言葉(メリムナオー)は、32~34節で3回出てきて、そこでは「心をくばる」と訳しています。

心くばりというと思い出すのが、もう40年位前の話ですが、当時NHKのアナウンサーだった鈴木健二さんの書いた「気くばりのすすめ」という本が話題になった事です。

気くばりや心くばりは、他の人の事を思いやることですから本来は良いことです。

ここで心くばりが問題になるのは、心くばりそのものに問題があるのではなくて、心をくばる相手が一人ではなくて複数になることによって、心が分かれてしまうからです。どうかして主を喜ばせようとするのは、独身でも結婚していてもクリスチャンなら同じです。

ただ未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとするが、結婚している男子はこの世のことである仕事や家等色々な事に心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとします。

結婚している男子が妻を喜ばせようとすることは良いことです。しかし神とかみさんとの間で心が分かれるのが問題です。

同じ様に未婚の婦人とおとめとは、主のことに気をくばって、身も魂もきよくなろうとします。これは独身の女性は誰でも自動的に身も魂もきよくなろうとするという意味ではありません。

身も魂もきよくなろうとするのも独身でも結婚していても同じです。

ただ独身の女性は身も魂もきよくなろうとすれば、それがし易い、恵まれた環境に置かれているという意味です。しかし結婚した婦人はこの世のことである家事等に心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとします。

未信者と結婚している人は、そうしないと伴侶から、信仰と自分とどっちが大事なのかという様な事を言われてしまうこともあるかも知れません。パウロがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではありません。

パウロは自分自身が独身であることもあって、独身の方が主のことにだけ心をくばり易いという利益があると考えます。しかしひとりびとり賜物が違うので束縛するために言っているのではありません。

実際パウロはⅠテモテ4:3で、「偽り者どもは結婚を禁じたりする」と言っていますので、結婚を禁じることはしません。

それどころかパウロにとって独身か結婚するかということは、先週の割礼を受けているか、奴隷であるかという問題と同じく全く大事な事とは思っていません。

そうではなくて、ただ正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいだけです。パウロにとって大事なのは、独身だろうが結婚していようが関係なく、ただ余念なく主に奉仕することです。

ところでここで「奉仕」と訳されている言葉(ユーパレドロン)は面白い言葉が使われています。原語の意味は、正しく側に座る、という意味です。改めて奉仕とはどういうものかということを教えられます。

奉仕とは何かをすることではなくて、神の御心を正しく知って正しい場所にいることです。

ルカ10:38~に、マルタとマリヤの話が出て来ます。お姉さんのマルタは主イエスの接待で忙しくして心をとりみだして、心が分かれていました。

しかし、妹のマリヤは主の足もとにすわって、御言に聞き入っていました。

この時に主イエスはマルタに、「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」と言われました。正しく側に座って、本当の奉仕をしていたのは、妹のマリヤでした。

私たちもまず、正しく主の側に座らせて頂きましょう。そして私たちも独身や結婚といった表面的な事に捕らわれるのではなくて、主から賜った分に応じて、聖霊に力により頼み、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕をさせて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはこの世の様々なものをも用いて私たちを祝福してくださいますから有難う御座います。私たちが与えられている恵みを感謝しつつも、過ぎ去るこの世の有様に深入りしないようにお導きください。そしてあなたに預けられている家族を大切にしつつ、わたしたちが正しい生活を送って、余念なく主に奉仕をすることが出来ますように、力強い聖霊の力でお導きください。
主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。