主から賜った分に応じて

2020年8月9日
コリント人への第一の手紙7章36~40節

主の御名を賛美します。小さい頃に聞いた歌は良く覚えているもので、色々な影響を与えるものだと思います。私が10歳の時に聞いた殿様キングスの「なみだの操」という曲は良く覚えています。日本的には一人の人にずっと尽す美学の様なものが、特に演歌には多い様な気がします。その様な事を思いつつ今日の御言を聞かせて頂きましょう。

1、相手のおとめ

今日の聖書個所には36~38節と39、40節の二つの段落があります。

一つ目の段落の36~38節には口語訳では二人の人が出て来ます。ある人である男性と相手のおとめである女性です。この男性と女性の関係はどの様なものなのでしょうか。

この中に新改訳聖書をお持ちの方はどの位おられるでしょうか。新改訳聖書をお持ちの方は聖書朗読を聞いて何を言っているのだろうかと思われたかも知れません。口語訳と新改訳では話の内容が全く違うからです。

この個所は解釈が難しくて口語訳と新改訳以外の考え方もあります。「相手のおとめ」は原語では、「彼のおとめ」と書いてあります。

一つ目の考え方である新改訳では、ある男性はおとめの父親で、父親と娘の話として書いてあります。この当時の父親には娘の結婚を決める権限がありました。「情熱をいだくようになった場合」という言葉は、情熱の盛りを超えるという意味で、ある人を主語にすると、「情熱をいだくようになった場合」という意味になりますし、娘を主語にすると、適齢期を過ぎるという意味になります。

適齢期を過ぎた娘に結婚させてもよいけれど、結婚しない方がもっとよいという意味です。これは伝道的な考え方で文語訳も新改訳と同じ意味です。

しかし新しい新改訳2017では、自分の娘は自分の婚約者に訳が変えられています。

二つ目の考え方である新改訳2017と口語訳は相手のおとめとは自分の婚約者であると考えます。自分の婚約者と結婚してもよいけれど、結婚しない方がもっとよいという意味です。

教会共同訳と新共同訳は、一見すると新改訳2017と口語訳と同じ意味の様ですが、実は違う意味です。三つ目の考え方は、現代の日本に生活している私たちには分かり難いものですが、2~3世紀にあった禁欲的な考え方に基づく精神的結婚と言われるもので、あくまで精神的だけの結婚生活で共同生活をしていました。

ただそれを続けるのが難しくなってやむを得なければ本当の結婚をするがよいという意味です。四つ目の考え方として、「彼のおとめ」というのは、女性の事ではなくて、ある人が自分の貞節を守ることを意味しているというものです。そして無理をしないで自分の思いを制することができるのなら、そうしてもよいと考えます。

ここはコリント人への第一の手紙の中で一番解釈の難しい個所と言われています。

最新の日本語の聖書の訳から言えば、自分の婚約者又は精神的結婚の相手と考えられています。

2、主から賜った分に応じて

しかし37節で、「しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで自分の思いを制することができ、その上で、相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、そうしてもよい」ものです。ただ、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ひとりびとりはそれぞれ違うものです(7節)。もし自制することができないなら、結婚するがよいものです(9節)。

普通に日本に暮らす私たちにとっては、相手のおとめとは婚約者と考えるのが自然な感じもします。しかし37節を読むと、自分一人で勝手にそのままにしておこうと決心して、婚約者をほっぽりっぱなしにしておいてよいというのは、自分勝手な気がします。

結論として、相手のおとめが例え誰であろうと、結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよいものです。ここの所の説教を続けて聴かれている方は誤解は無いと思いますが、これは決して単純に結婚するより結婚しないで独身の方がもっとよいと言っているのではありません。

結婚しない方がもっとよい理由は、先週の33、34節にあった様に結婚すると、この世のことに心を配って配偶者を喜ばせようとする様になるからです。そうすると、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕をするのが難しくなってしまうからです。

パウロの目的は正しい生活を送って、余念なく主に奉仕することですから、結婚してそうしているのなら、それはそれで勿論よいものです。ただ、マタイ6:24に、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」とある通りに難しいということです。

結婚か独身かは、まず自分の賜物がどちらであるのかを主から教えて頂く必要があります。その上で、どちらの環境の方が主に奉仕するために自分にとって相応しいかを合わせて教えて頂く必要があります。神からの賜物はひとりびとり違うのですから、他の人と比べるのではなくて、主から自分に賜った分に応じて身の丈に合った生き方をします。

3、再婚はさしつかえない

さて妻は夫が生きている間は、その夫につながれています。それは夫も同じことです。

それは11節に有った通りです。しかし夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえありません。この御言を皆さんはどの様に思われるでしょうか。

私より上の方の世代ですと戦争で夫を亡くして再婚をせざるを得なかったという方もおられると思います。この当時は夫が亡くなると本当に生活の糧を得るのがとても難しかったと思います。しかし私は意外に古臭い考えがあってこの御言を素直に受け入れ難い部分があります。

一つの思い出として、私が生まれた1963年に第35代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディが暗殺されましたが、奥さんのジャクリーンはその時34歳でした。その5年後に奥さんのジャクリーンがギリシャの海運王であるアリストテレス・ソクラテス・オナシスと再婚しました。

その時に私は5歳ですので、後でその事を知ったのだと思いますが、知った時はとてもショックでした。ジャクリーンはとても美人で勝手に自分の中で理想像を作って、自分の理想の通りに生きて欲しいと思っていたのかも知れません。

しかし聖書は人間の性質を素直に認めて、夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないと言い、とても現実的です。しかし再婚等したら天国に行った時に前の夫に会わす顔がないと思われる方がおられるかもしれません。しかしその様な心配は無用です。なぜでしょうか。

ルカ20:27からの所で、サドカイ人が主イエスに質問したことですが、ある女の夫が死んで、夫の弟と結婚しては死ぬことを繰り返して、この女は7人の兄弟と結婚しました。そして復活の時にはこの女は誰の妻になるのかという質問でした。

主イエスのお答えは、復活の時には天使に等しいものであり、めとったり、とついだりすることはないとのことでした。この答えを聞いて寂しいなと思われる方と、何かほっとする方とおられるかもしれませんが(?)、皆さんはどちらでしょうか。

伴侶が亡くなった場合には再婚はさしつかえないのですが、それは主にある者とに限ります。ここの訳は私は新改訳2017の「ただし、主にある結婚に限ります」の方が好きです。原語では「ただ主にあって」とだけ書かれています。

口語訳と協会共同訳は再婚相手が主にある者ですので、要するにクリスチャンに限るという意味です。新改訳2017は主にある結婚ですから、クリスチャンなら誰でも良いという訳ではなくて、クリスチャンでも主の御心に適う人と言えますし、極端に言えばクリスチャンでなくても、主の御心に適うと思うなら良いとも考えられます。

4、そのままでいたなら、もっと幸福

しかしパウロの意見では、そのままでいたなら、つまりやもめでいたなら、もっと幸福です。この御言を読むと、再婚をするよりもやもめでいた方が本当に幸福なのかなと思ってしまいます。パウロはどういう意味で、「そのままでいたなら、もっと幸福である」と言っているのでしょうか。

ここも新改訳2017は良い訳をしていると思います。新改訳2017は、「そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです」と。「幸いです」と言われると、あのマタイ5章の山上の垂訓を思い出します。「心の貧しい人たちは、さいわいである」等です。実際同じ言葉が使われています。

そして「幸い」と言われると、それはこの世的な幸福ではなくて、神からの祝福を受ける本当の幸福を意味していることが分かります。つまりここでも、再婚をするよりも、やもめのままでいた方が、この世の事に心をくばる必要がなくなって、その分、余念なく主に奉仕出来るので、その方が幸いですよと言っています。

本当にパウロは徹底して神の事だけを考えているのだなと思わされます。そしてパウロは、「わたしも神の霊を受けていると思う」と言います。これはパウロが個人的な意見を書いているのではなくて、聖霊の示しを受けて書いているということです。

またコリント教会の中には、14:37にある様に、「自分は預言者か霊の人であると思っている」人がいましたので、その人たちを意識している部分もあったのでしょう。

パウロは7章全体を通して結婚の事を色々と書いて来ました。結論として、召されたままの状態にとどまることが勧められています。しかしそれは時代的背景や地理的な背景、またコリント地域の特殊な事情もあります。

そして何よりも、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ひとりびとり違うので、それは当然、生き方、結婚にも現れて来ます。ですから他の人と比べるのではなくて、無理をしないで、主から自分が賜った分に応じて、主の導きに従って歩むことです。そして自分の分に応じて余念なく主に奉仕をして、神の栄光を現させて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。

あなたは結婚とはふたりの者が一体となるものであると言われ、結婚を祝福されます。

しかし同時にまず大切な事は主に奉仕することであると言われます。

ひとりびとりあなたから与えられている賜物は異なります。自分に与えられている賜物がどの様なものであるのか、そしてどうすることが主の御心に適う事であるのか、聖霊の声に耳を傾けて歩むことが出来ます様に、力強い御手を持ってお導きください。

主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。