兄弟をつまずかせない

2020年8月30日
コリント人への第一の手紙8章7~13節

主の御名を賛美します。先日は休暇を頂き、留守の対応をして頂きまして有難うございました。今回はコロナ対応として家族旅行は中止しました、感染予防の意味も含めて私は一人で念願だった車中泊による旅行を少ししました。学生の時に友達と車中泊をした事はありましたが、その後は車中泊は30年以上した事がありませんでした。

時期的に暑くて大変な事もありましたが、新しい世界が開けた様な気がして感謝でした。また新しい事と言いますと、昨日は教会で結婚式があり、結婚式の司式を初めてさせて頂きました。先週は別の姉妹の入籍の報告もあり、コロナ禍にあっても本当に嬉しい出来事です。二組の新婚夫婦の祝福を皆さんでお祈りして行きましょう。

1、この知識

前回の1~6節では、4節の「さて、偶像への供え物を食べることについては」と言いつつ、実際にはその内容には入りませんでした。その前の準備段階として、知識は人を誇らせるものである事や、偶像は実際は存在しない事等を話しました。

パウロが7節で、「しかし、この知識をすべての人が持っているのではない」という「この知識」とはどういう内容でしょうか。それは4節の、「偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないこと」です。

パウロに対して質問の手紙を書いて来たコリント教会員にとっては、そんなのは当たり前の事で、1節で、「わたしたちはみな(その)知識を持っている」、知っていると言います。しかしパウロは、そうは言っても、「この知識をすべての人が持っているのではない、完全に納得して自分の物としているのではない」と言います。

「この知識」を持っている人にとっては、神は唯一であって、偶像は実際は存在しないのだから、偶像への供え物である肉を食べても全く何の問題もないと考えます。極端に考えれば偶像への供え物を食べる事は、神は唯一であって、偶像の存在を否定することに繋がるので、むしろ正しい行いという事に至るかも知れません。

この当時は偶像の宮で食事をする機会がありました。それはお祭りや行事等で食事に招待される事があったからです。これは現代でも、神社やお寺等でそう言った機会がありますし、教会でも今はありませんが愛餐会があります。また神社やお寺また教会でも、食事を提供する食堂の様な施設を経営している事もあります。

当然そこには、供え物が食材として使われていることもあります。偶像は存在しないという知識のある人は、これ見よがしに、偶像の宮で食事をしても良いのだと人々に言わんばかりに、そこで食事をしていたのかも知れません。人はそれぞれ、信仰を持ってからの年数であるとか、年数に限らず性格による違い等がありますので、中には「良心が弱い」と言われる人がいます。「良心が弱い」というのは、精神的に弱いという意味ではなくて、偶像への供え物について、はっきりとした知識や意見をまだ持てていない人です。

2、偶像への供え物

この当時は一般の人が読める本等はありませんので、全ての人に均等に十分な知識がないのはある意味で仕方がない部分もあります。そういう人は、知識がある人が偶像の宮で、偶像への供え物を食べているのを見ると、そうか食べても良いのかと考えて、教育されて供え物を食べるかも知れません。

又は知識のある人に、しっかりとした信仰の確信を持つために、偶像への供え物を食べる様に言われて食べさせられたのかも知れません。しかし、良心の弱い人は、これまでの習慣として、偶像への供え物として、それを食べます。偶像への供え物として食べるというのは、どういう意味の事でしょうか。

それは偶像の神の霊が宿った物として肉を食べるということです。その様な思いで食べて、果たして美味しく楽しく食事が出来るでしょうか。出来る訳がありません。食べながら、これによって偶像の神の影響を受けるようになってしまうのではないかと考えたり、自分は罪を犯しているのではないかと思ったりしてしまいます。

悪い事をしていると思いながら何かをしていると、そこに平安や喜びはありません。そして良心が汚されて行きます。するとその弱い人は、知識のある人の知識によって滅びることになります。滅びるというのは、良心の弱い人が、直ぐに天国に行けなくなってしまうという意味ではありません。

本来クリスチャンとして、全ての事から解放されて、自由となって平安と喜びに満たされる人生を失ってしまう事です。その行き着く先にはクリスチャンとしての生き方を失う事に至ってしまうかも知れません。

3、食物

そもそも、食物は信仰者にとってそれ程、大切な物なのでしょうか。確かに主の祈りの中にも、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とある様に、身体の健康を保つために適切な食物をとることは大切です。しかし、偶像への供え物を食べたからと言って、別に信仰が強まる訳ではありません。

食物は、わたしたちを神に導くものではありません。食物自体は信仰的には神に導くものではないけれど、また逆に神から離れさせるものでもなくて中立です。ですから食物は信仰的には食べなくても損はないし、食べても益にはならないものです。そうするとその様な食物を食べる事に拘る事自体がどうなのかという問題が出て来ます。クリスチャンは自由です。

ここで自由という意味は何を食べても自由という事です。ここの自由という言葉は権利という意味もあります。それは旧約聖書で食べる事を禁じられていた全ての物を、使徒行伝10:15で、神がきよめたとあるので、クリスチャンは自由に食べる権利があります。

4、自由

しかし自由というのは他の場合でも同じ様に、自分が好き勝手に何でもして良い事ではありません。自由にはいつも責任と役割が付いて回ります。それは自分の自由が周りにどの様な影響を与えるかを考える責任と行動する役割です。

クリスチャンの自由は、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけることです。自分は偶像の宮で供え物を堂々と食べて晴れやかな気分かも知れません。しかしその陰で、良心の弱い人が偶像への供え物を悩みながら食べて滅びに向かっているとしたら、それはクリスチャンとして果たして相応しい事でしょうか。

私たちは何かを考えて判断する時に、ある意味で真面目なクリスチャンは聖書に照らし合わせて、正しいか正しくないかを考えがちです。しかし1節にあった様に、正しい知識は人を誇らせます。そして私は正しいのだから良いのだと考えます。

5、つまずき

しかし聖書は人間が考えて正しいか正しくないかで判断するのではなくて、周りに人に対する愛に基づいて考えなさいと教えます。正義よりも隣り人に対する愛です。キリストの十字架の死は全ての人の罪の赦しのためです。それは知識のある人のためであると同時に、良心の弱い兄弟のためでもあります。

自分が偶像の宮で供え物を食べるのは正しい、それはクリスチャンの自由、権利であると言って、兄弟をつまずかせるなら、それは兄弟たちに対して罪を犯すことです。罪を犯すだなんて、そんなに大袈裟な事なのかとも思ってしまいます。

しかしマタイ18:6には、「わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる」と厳しい御言がある通りに、兄弟姉妹をつまずかせることは罪です。

そして兄弟たちに対して罪を犯すことは、キリストに対して罪を犯すことです。それはマタイ25:40で主イエスが、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と言われた通りです。

6、結論

そして結論として、「だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」とパウロは言います。皆さんは肉はお好きでしょうか。私はもっと若い時ほどではありませんが、肉はまあまあ好きです。それは恐らくパウロも同じだと思います。

しかしパウロにとっては自分の食べ物の好き嫌いよりも、人々の救い、またつまずかせる事の方が大きな事です。ここでパウロは、「わたしは」と自分の事を言っていますが、それはクリスチャンは皆同じ思いであって欲しいとの願いです。パウロにとっては自分の救いがとても大きい事だったので、それは他の人にとっても同じ様に大切な事だと考えるからです。

ただパウロは兄弟をつまずかせるなら肉を食べないと言っているのであって、誰も兄弟をつまずかせる事のない場面である、例えば過越しの祭の時の小羊の肉等は食べたのではないかと思います。

私たちにとって、偶像への供え物に相当する様な事はどの様な事でしょうか。やはり異教との関りでしょうか。例えばクリスチャンが神社や寺に行くことはどうなのでしょうか。敢えて行く必要はないかもしれません。しかし山を登ったりすると日本の高い山の頂上は大抵、神社になっていたりします。

これは恐らく聖書でモーセがシナイ山の上で神と会った事等に由来していると思います。山の頂上を現在、支配しているには神社かもしれませんが、山自体を作られたのは神です。山自体を作られた神とそこを現時点では支配している神社とどちらの力の方が強いものでしょうか。

神は唯一であって、唯一の神だけに心を向けて信頼するのであれば、異教の背後にあるかもしれない霊の働きなどは到底及ばないものです。ただそういう意味で神社等に行っても何も問題ないというのは7節にある知識であって、9節にあるクリスチャンの自由です。

しかしその様な知識のあるクリスチャンが神社等に行って、神社の中にある茶店等で食事をした等という話を聞くと、あの人は偶像礼拝をしているとつまずきを覚える人もいるかも知れません。そういう意味では、例え自分は山に登って神社に行っても何も問題はないと思っていても、敢えて皆にあそこの神社はとても素敵だったと言って写真を見せたりするのは控えた方が良いかも知れません。

それは必ずしも全てのクリスチャンが同じ思いで受け止められるかどうか分からないからです。ましてや良心の弱そうな人に、あなたの信仰を強めるために神社に行きましょう等と誘う必要はありません。自由や権利は、それに心から賛成する人の間で楽しめば良い事です。

心から同意出来ない人に無理強いすることではありませんし、ましてやつまずかせたりする事はさけるべきです。キリストが十字架で命を懸けて救おうとされた方々を、私たちも聖霊の導きの中でキリストと同じ思いを持って救いに導かせて頂きましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世には偶像の神は存在しないで、唯一の神のほかには神はありません。しかし人それぞれに色々な考えや思いがあります。偶像の背後にある霊の働きにデリケートな方もおられます。

私たちが自分の考えの正しさを主張するのではなくて、多様な考えを持つ方々をキリストが愛された様に、私たちも愛し、つまずかせる事が無いようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。