唯一の神

2020年8月16日
コリント人への第一の手紙8章1~6節

主の御名を賛美します。茂原では七夕祭りが有名ですが今年はコロナの影響で中止になりました。夏はこのお盆の時期に祭りが行われて盆踊りが踊られます。盆踊りはお盆に帰って来ると考える先祖の霊を迎えて供養するためのものです。

この辺りの地域でも行われるお祭りと呼ばれる物は、基本的には全て宗教行事と関わりのあるものです。その様に考えるとクリスチャンがお祭りに参加するにしても、しないにしても、それはどの様な理由によるものであるのかを考えておくことは大切です。

以前にある教会で、私たち夫婦と友人であるクリスチャンの母親は教会学校にも来ていた子どもに、お祭りで神輿は担がせたくないと言っていました。しかし子どもは宗教的な意味とは関係なく、さらしを巻いて白い服を着て神輿を担ぐのが単純に格好が良いのか神輿を担ぎたいと願っていました。結果はどうしたのかは聞かなかった様に思いますので、言いたくなかった結果だったのかも知れません。

また私たちが葬儀の知らせを受けると、その多くはキリスト教式ではなく仏式です。そこでクリスチャンは葬儀に出席した時に、お焼香の時はどうしようかと考えたりします。その様な時にどの様に考えたら良いのでしょうか。御言を聞かせて頂きましょう。

1、構成

今日の個所はコリント教会からの質問の3つ目の内容です。一つ目は7:1の「男子は婦人にふれないがよい」か、二つ目は7:25の「おとめのことについて」でした。今日の三つ目は、「偶像への供え物について」です。

パウロはこの手紙の構成もとても計算して書いているように思います。パウロはローマ人への手紙1章で、神を認めない者がどの様になって行くかを示しました。初めに陥るのが偶像礼拝、2番目が性的不品行、そして3番目が争いであると言いました。逆に言えば、3番目の争いがある所には遡って、2番目の性的不品行の問題が必ずあって、初めの偶像礼拝の問題も必ずあります。

そこでこのコリント人への手紙では、逆の順番で、1~4章は争いの問題、5~7章は結婚を含めて性的な問題、そして8~10章の偶像礼拝の問題へと遡って行きます。コリント教会には3番目の争いの問題があるのですから、その前段階の問題も必ずあります。

2、偶像への供え物

コリント教会からパウロへの質問内容は「偶像への供え物について」です。これはローマ人への手紙14章にも書かれていました。なぜそれ程迄に偶像への供え物が各地で問題になるのでしょうか。コリントは現在のギリシャの都市ですからギリシャ神話の多くの神々がいます。人々は色々な行事やお祭りの時にギリシャ神殿の神々の偶像に供え物を奉げます。

そういった時に供え物の一部は神殿の祭司に与えられて、残りは奉げた人におさがりとして返って来ました。祭司は与えられた供え物の一部を食べますが、それ以外は市場に売りに出して現金にしました。

奉げた人は、おさがりの供え物を皆で食べたり、やはり市場に売ったりしました。クリスチャンは色々な場面でこの偶像への供え物を食べる可能性があります。お祭りに行けば、偶像への供え物を食べる可能性があります。

人に招待された時に出される食事の中に偶像への供え物が含まれている可能性があります。市場で売っている物には、偶像への供え物が含まれている可能性があります。偶像への供え物に限らずに、広い意味で偶像、異教との関りと考えると、似た様な問題はいつの時代でも、どこの地域にでもあることです。初めにお話ししました様に、現代の日本でもお祭りや冠婚葬祭等色々と問題があります。

3、知識

コリント教会からの手紙の内容ですが、今回もまたパウロの書いた内容から考えると、「偶像への供え物について、わたしたちはみな知識を持っている」と書いてあったようです。パウロはいつもの通りに、相手の言う事を受け止めて、「うん、そうだね、わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっているよと伝えます。

その上で、パウロは大切な事を伝えます。それは、知識は人を誇らせるということです。「誇らせる」という言葉は、「ふくらませる」という意味の言葉で、教会共同訳と新改訳2017は「高ぶらせる」と訳しています。それは中身が無い物をふくらませて大きくしている有様です。

コリント教会員は1:26にあった様に、知恵のある者が多くはありませんでした。しかしキリスト教の知識を得た事で、以前の状態に対する反動もあってか、自分は真理を知ったと思って、今度は自分が上の立場になったと思って、誇って高ぶっていたのかも知れません。

しかし、「もし人が、自分は何かを知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていません」。「知っている」は完了形ですので、知り尽くしたということです。口語訳の「知らねばならないほどの事すら、まだ知っていない」というと、何か知識が足りない様な感じがしますがそういう意味ではありません。

原語では、教会共同訳の「知らねばならないように知っていない」という意味です。つまり知り方の問題です。知識だけを求めると、自分は何かを知っていると思う様になり、自分を誇り高ぶる様になります。テレビ等のマスコミ等や、また私たちの周りでも残念ながらそういう人の姿を見かける場面はあります。

4、愛

私たちが何かを考える時に一番初めにすることは何でしょうか。主イエスが、律法の中でいちばん大切ないましめはどれかと質問された時の答えは、マタイ22:37で「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」でした。まず神を愛することから始めます。そして「人が神を愛するなら、その人は神に知られています」。ヘブル語で「知る」という言葉は人格的な交わりを持つという意味です。人が神を愛するなら、その人は神に知られて神と人格的な交わりを持って、その中で答えが導かれます。

そして神を愛する者は、二番目に大切ないましめである「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」の御言に基づいて考える様に導かれます。知識は人を誇らせ、高ぶらせ、他人をさばくようになります。しかし愛は人の徳を高めます。愛は建徳的です。何かを考える時には愛に基づく必要があります。

アイフルのコマーシャルで、女将さん役の大地真央さんの「今野、そこに愛はあるんか」の台詞は人気があるのか今も続いていますが、私たちもいつも、知識によって人をさばくのではなくて、自分に対して「そこに愛はあるんか」と問い掛けつつ歩みたいものです。

5、偶像

「偶像への供え物を食べることについては」、再来週の内容になりますが、その前に偶像についてです。4節の内容は、コリント教会が1節で、「わたしたちはみな知識を持っている」と言っている具体的な内容です。

つまり「わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている」ことです。これは旧約聖書の列王紀上18章で、預言者エリヤが異教のバアルの預言者たちと対決して勝利したことなどから明らかです。しかし偶像は本当に存在しないのでしょうか。

6、異教の神々

パウロは、神々といわれるものが、天に、あるいは地にあり、多くの神、多くの主があるようではあると認めています。ギリシャ神話の有名なオリュンポス12神には、私たち日本人でも知っている、主神ゼウス、予言の神アポロン、ブランドの名前でも有名な伝令神ヘルメス、海の王ポセイドン等がいます。

偶像は原語でエイドーロンで、アイドルの元になった言葉です。エイドーロンは「見る」(エイドー)という言葉から出来た「見える形」を現します。偶像その物であるオリュンポス12神は、エリヤが対決したバアルの神の様に実際には存在しません。

ただ偶像の背後には霊の働きがあるのは事実です。ですからそこには人間の力を超えた超自然な力が働くこともあります。しかし、中心聖句の「唯一の神のほかには神がない」の通りに、それらは飽くまでも霊であって神ではありません。

そして霊には悪いものがありますので、超自然の力が働くからといって、信頼して頼ったとしても、果たして自分にとって良い方向に行くかどうかは分かりません。しかしその様な知識を持って、他の宗教を信じている人に対して、自分は真理を知っているとして、自分を誇って、高ぶるなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていないことになります。他の宗教を信じている人のその信仰心を尊重して敬う愛によって、その人を導いて徳を高める事が出来ます。

7、唯一の神

それでは私たちの唯一の神はどの様なお方なのでしょうか。6節の御言はこの当時の信仰告白の言葉であると考えられています。それは、まず前半で「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する」。

「万物はこの神から出て」ということは、神は万物を造られた創造主であることです。そして「わたしたちもこの神に帰する」のです。「帰する」というのは目標や目的を現す言葉です。それは6:20にあった様に、クリスチャンの人生は神の栄光をあらわすためです。

このことは、イザヤ44:6の「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない」に繋がります。「また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている」。

神は万物を造られた創造主ですが、ご自身で造られたのではありません。箴言8:27(p890)に「彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった」と言います。

そして30節で、「わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり」と言います。新改訳2017では、「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった」です。この世が創造された時に、主イエスによって組み立てられましたので、万物はこの主によります。

またわたしたちは、主イエスの十字架の贖いによって救われて、神に帰する者へとされましたので、わたしたちもこの主によっています。この世には唯一の神がおられ、私たちは唯一の救い主イエス・キリストの十字架の贖いによって救われる者です。

しかし私たちはその知識を誇るのでなくて、先に恵みに与かる者として、聖霊の力を頂いて、神が私たちに示してくださった愛を持って他の人々を愛して、救いへと導く者として用いて頂きましょう。

8、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世には色々な霊的なものも存在します。しかし私たちを愛し、救いのために御子イエス・キリストを十字架に掛けられたのは唯一の神のみです。

しかし私たちはその知識を誇るのではなくて、神が私たちに示してくださった愛をもって、他の人を愛するものとさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。