十分な神の恵み

2020年9月13日
コリント人への第二の手紙12章1~10節

主の御名を賛美します。先週の日曜日に石井しば姉が天に召されました。しば姉はいつも穏やかに、にこにことして、入院先や入所した施設を訪問しても変わらずに、決して不平・不満を口にしませんでした。

高齢であるしば姉にとって、住み慣れた自宅を離れて、良く知らない所で生活するのは、そんな簡単な事ではなかったと思います。ましてや身体の調子が良くなくなると自制心も弱くなるものです。しかししば姉は変わりませんでした。しば姉の様な生き方を覚えつつ御言を聴かせて頂きましょう。

1、まぼろしと啓示

パウロは1~4節で、主のまぼろしと啓示の神秘的な体験をした人の話をしています。まぼろしは、ヴィジュアル的に目に見える神からの啓示を指して、啓示は目で見るものではないようです。そしてパウロがその啓示を受けた人を誇らざるを得ない事情があると言いますが、それはどういう事でしょうか。

11:12、13に書かれていますので、お読みします。コリント教会には人をだます、にぜ使徒がいました。どの様に人をだましていたかというと、色々な神秘的な体験の話をしていた様です。人は人間の常識を超えた超自然的なものに弱い部分があります。

しかし超自然的なものが必ずしも正しい神の力によるとは限りませんので注意が必要です。サタンも人をだますために不思議な業を行います。日本でも少し前にスピリチュアルなものが流行ったりしました。コリント教会は神秘的な体験の話をする、にせ使徒の影響を受けていた様です。

そこでパウロはコリント教会がにせ使徒にだまされないために、その様な神秘的な体験であれば、自分も体験した人を知っていると言います。というより、パウロはあるひとりの人とは言っていますが、これは明らかにパウロ自身の体験です。

ただ自分の事として話すと、必要以上に人に買いかぶられるかも知れないので、ある人と第三者の様な言い方をします。パウロは、Ⅰコリント2:2で、十字架につけられたキリスト以外のことは、何も知るまいと決心しています。

もしもこの神秘的な体験を自分の体験として話してしまうと、十字架につけられたキリストよりも、パウロ自身に人々の注目が集まってしまう可能性もあるので、自分の体験としては話さない様です。パウロは14年前に第3の天にまで引き上げられました。

14年前の聖書に書いてあるどの出来事を指しているか色々な議論はありますが、特定はされていません。第三の天というのは、色々な考えがありますが、パラダイスと同じと考えられています。第三の天について一つの考え方は、ユダヤ人が天を段階的に分けて考えていました。第一の天は青空、第二の天は、星のある空である星空、第三の天が神のおられる天国と考えた様です。パウロはそこに引き上げられましたが、からだのままであったか、からだを離れて霊だけが行ったのか、パウロは知らないで、神がご存じであると二回繰り返して強調します。

パウロ自身が知らない事をあれこれと考えても分からない事です。そして人間が語ってはならない言葉を聞いたと言いますから、神の言葉を聞いたのでしょう。パウロはなぜ、この様な体験をしたのでしょうか。一つはパウロは私たち普通のクリスチャンとは違って、11:24~27の様な苦難を経験しています。

この様な特別な体験を通して神から信仰の励ましを受けて、確信が与えられていたのだと思われます。また聖書に含まれる記事として、この様な特別な出来事もあることが書かれるために必要だったのだと思われます。

ですからここにこの様な記事があるのだから、現代でも同じ様な事が起こるのだとは簡単に言える事ではありません。現代にも起こり得る事ではあると思いますが、それは本当に神の目から見て必然性がある場合だけだと思われます。

2、パウロのとげ

パウロはこの様なすぐれた啓示を受けているので、人に買いかぶられて、高慢にならないように、肉体に一つのとげが与えられました。このパウロに与えられたとげとは何かというのも色々な議論があります。良く言われるのがパウロは目が悪かった事です。

確かに、ガラテヤ6:11には、「わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いている」等、他の箇所にも目が悪いと思われる記事があります。そしてその原因は、使徒行伝9:4のダマスコに行く途中で天から光がさして、一度目が見えなくなった事だと言われます。

しかしガラテヤ4:13、14を読むと違う様にも思われます。パウロの肉体のとげは、他の人からは、卑しめられる様な、きらわれる様なもので、試練となるものです。目が悪いだけではそんな事にはならない気がします。てんかんの様な病気やこの当時多かった皮膚の病気、またマラリアとも考えられます。

また象徴的に考えますと、肉体は生まれながらの全てのものの事で、とげはそこに刺さる物ですので、それぞれが自分に与えられた十字架と言えます。パウロには肉体的に何か具体的なとげが与えられていたと思いますが、私たちが霊的に読むには、肉体だけに限らずに考えた方が良いと思います。

肉体だけで考えても、どんなに素晴らしいと思われる肉体を与えられていても、全てが完璧という事はほとんどなく、何かしらのとげ、弱さの様なものがあるものです。また肉体にはとげが例え無かったとしても、それぞれに精神的に、また環境的に十字架が与えられています。ところで私たちがいくら全てが順調で例え高慢になっていたとしても、神はとげを与えられません。飽くまでも、とげを与えるのはサタンの使いです。それはヨブ記でヨブに試練を与えたのがサタンであったのと同じです。但し全ては神の御手の中で行われます。

パウロはこのことについて、サタンの使を離れ去らせて下さるようにと三度主に祈りました。誰でもとげが刺さっていたら嫌なものです。三度主に祈ったというのは、三回だけ主に祈ったという意味ではないのではないかと思います。切実な願いであればもっと祈ると思います。ある期間ずっと祈っていたのを一度、また暫くして祈っていた期間をもう一度としているのかも知れません。

3、恵みは十分

パウロの祈りに対して主は答えられました。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」。この御言はわたしが最近とても強く感じている御言です。石井しば姉が暫く前に教会の方が寄せ書きをした色紙を家族から読み聞かせられた時に、「ありがてーな」と何度も言っていたという事を聞きました。

その時に思い浮かんだ御言は、テサロニケ5:16~18の、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」です。この御言は順番的には、②の絶えず祈りなさい、で祈りを通して神と交わる事でしょうか。

そうすると恵みに対する感謝が生れて、③のすべての事について感謝が生れて、しば姉の様に「ありがてーな」となるのではないでしょうか。そして感謝する心は、①のいつもにこにことしている、しば姉の様な、いつも喜んでいる事になるのではないでしょうか。

先週の月曜日は私の誕生日でしたが、色々な恵みを頂いて感謝しています。最近は、何か感謝な事があると、しば姉の口癖を真似をして、「ありがてーな」と心の中で呟いています。その様な訳で先月のぶどうの木の巻頭言もこの御言を中心に書かせて頂きました。

さらに神の力(恵み)は弱いところに完全にあらわれます。人間の力が強いと神の力があらわれる余地がありません。しかし人間の力の弱いところに神の力(恵み)は完全にあらわれます。しば姉の身体は弱られても、神の恵みである喜びがあらわされていたなと思います。

4、証詞

今回、教会車を買い替える事になりましたが、自分の弱さがあらわれたと思いました。本当は去年買い替える計画があって、去年の教会総会資料に計画と予算を入れて、予算の百万円は私が出した金額でした。十数年前に自分で車を買った金額を参考にしたのですが、最近車は、衝突軽減システム等色々な装備が増えて価格はかなり上がっていて、予算で今の車より良い車は買えませんでした。それで去年、車を買うのは止めて、車検を取って車が動かなくなるまで使う事を私が提案してそうなりました。私は貧乏性でお金を使うのが苦手なので、内心ほっとしていました。しかし去年、折角車検を取ったのに、今回エアコンが故障してしまい修理に最低でも10万円掛かる事となってしまいました。

私は、「安物買いの銭失い」の言葉通りに、普段から安物ばかりを買っては、結局は高く付いてしまう様な事をしてしまいます。車は役員会で話し合って、もう12年経って、走行距離も13万キロを超えているので買い替える事にしました。結果的には、去年車検を取らないで計画通りに買い替えた方が良かったのではと後悔していました。自分の判断ミスであると思いました。

しかし今回、年式が2018年と新しい車を割安で買えました。コロナウイルスの感染拡大の影響もあってか、沖縄のレンタカー会社が、観光シーズンの終りにレンタカーだった車を多く売りに出している物の一台が茂原教会車になる事になりました。

沖縄のレンタカーというと若しかすると多少のリスクはあるかも知れません。しかしこの時期だからこそ買えた車かも知れないので、私たちには思いも寄らない事で、正に恵みです。沖縄のレンタカー会社のためにも役立っているなら感謝な事です。

5、キリストの力が宿るように

パウロは神の力、恵みは人間の弱いところに完全にあらわれるのですから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう、と言います。私たちは怠けてはいけませんので、祈りの中で自分に賜った分に応じた働きはしますが、それを越えたところには、神の力があらわれます。

パウロもガラテヤ4:13で、ガラテヤに福音を伝えたのは、伝道旅行の途中で病気になって肉体が弱ったのがきっかけでした。ですから神の力が自分に宿るように、自分の弱さを認めて大丈夫です。むしろ、神の力があらわれるのですから、喜んで自分の弱さを誇ります。

とげの与えられる一つの意味は神の前に高慢にならないために必要なのかも知れません。またそれだけではなくて、とげは真珠作りの核に例えられます。真珠貝が真珠を作るのは、ここでいうとげの様な異物の核を入れられると、その異物を覆うために分泌物が出て美しい真珠が出来ます。分泌物はキリストの力と言えます。

私たちは普通なら、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりは避けたいものです。しかしキリストのために、この5つの事に直面するなら、キリストの力が宿って、キリストの力があらわれます。私たち人間が弱い時に、キリストの力が宿って、キリストの力があらわれますので、結果的には人間が強い時よりも、弱い時にこそ、その人は強くなります。それは私たちの人生において、キリストの真珠を作る事です。真珠は買うのも良いですが、自分の人生で真珠を作ってみませんか。そして皆さんの作られる真珠で茂原教会を飾らせて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神さま、私たちはそれぞれにとげの様なものが与えられています。また年齢を重ねる毎に肉体的な弱さを覚える事があります。しかしあなたはあなたの恵みは私たちに対して十分であると言われます。

私たちがあなたの恵みを十分に受け取って感謝し、謙遜に歩む事が出来ます様にお導き下さい。そして私たちの力の弱いところに完全にあらわれるあなたの力を誇らせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します+。アーメン。