使徒の自由と権利

2020年9月20日
コリント人への第一の手紙9章1~6節

主の御名を賛美します。「使徒」とインターネットで検索するとアニメの新世紀エヴァンゲリオンがトップに出て来ます。エヴァンゲリオンは福音の意味で聖書をモチーフにしていますので、登場人物には使徒も出て来ます。

使徒は現代では、その様なファンタジーな存在となっているのだと思わされます。しかしその様なファンタジーを現実にしようと考える人たちもいます。その様な事を覚えつつ御言を聞かせて頂きましょう。

1、自由と権利

8~10章は、8:4の「偶像への供え物を食べることについて」です。しかし9章には「偶像への供え物を食べることについて」は触れられていません。パウロはまた話の脱線をして、横道に逸れてしまったのでしょうか。ここは横道に逸れたというよりは、偶像問題を含めて広い意味で、自由と権利について話しています。

偶像への供え物を食べることについてはパウロも、「偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを知っている」という知識を持っているので、偶像への供え物の肉を食べる自由、権利があります。

しかしパウロは、「もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、わたしは、永久に断じて肉を食べることはしない」と言いました。パウロは偶像への供え物の肉を食べる自由、権利はありますが、食べないという自由、権利もあります。

自由と権利は自分の好き勝手な事をして良いのではなくて、その責任と役割を考える必要があります。パウロは「わたしは自由な者ではないか」と言って、自由の使い方をコリント教会に教えます。

2、パウロの使徒性

説教題である使徒の自由と権利の前に、この当時の大きな問題を扱います。それはパウロは使徒であるのかということです。パウロが使徒であろうがなかろうが、私は別に聖書の研究をしている訳ではないので、余り興味も無いし、関係も無いと感じる方もおられるかも知れません。

しかしパウロが使徒であるかどうかはどうでも良いでは済まされない、私たちの信仰の在り方にとても大きな影響を与える大切な事です。その事については後程お話したいと思いますので、じっくりとお聞き頂きたいと思います。

3節の「わたしの批判者たち」というのは、パウロを単に批判するだけではなくて、パウロが使徒であるということを批判する人達のことです。その様な事もあってか、パウロはこのコリント人への手紙を含めて多くの手紙の初めの書き出しを使徒パウロからと書いています。自分は使徒であると。ここでもこの使徒問題をはっきりとさせるために、「(わたしは)使徒ではないか」と問います。ところで使徒とはどういうものなのでしょうか。使徒(アポストロス)の言葉の意味は、「特別な使命を帯びて派遣された者」です。私たちがはっきりと使徒として知っている人たちは主イエスの12弟子である12使徒です。この12使徒は主イエスによって直接に弟子として任命されました。そしてイスカリオテのユダがいなくなってマッテヤを補充した時には使徒となる条件が使徒行伝1:22に書かれています。

それは、主イエスと他の使徒と始終行動を共にした主の復活の証人となる人です。

大雑把に言うと二つの条件で一つは主イエスからの直接の召し、召命です。

そしてもう一つは、主イエスと行動を共にした復活の証人です。この二つの条件についてパウロはどうなのでしょうか。パウロは使徒行伝9章でダマスコに向かう途中で主イエスに会いましたが、パウロと一緒にいた同行者は主イエスを見ていませんので証人とはなれません。パウロが主イエスに会ったというのは証人のいない自分一人だけの自己申告です。

またパウロに対する主イエスの召し、召命については、証人はアナニヤという人一人だけです。そしてパウロは復活された主イエスに会ってはいますが、十字架に掛かられる前の主イエスに会ってはいません。

ですから、厳密に言うと、主イエスが十字架に掛かられて、その同じ人が復活された証人とは言えないのではないかと思います。これらの事を考えて行くと、パウロが使徒である事、これはパウロの使徒職とか使徒性と言われますが、それに疑問の声が上がったのも頷ける気がします。

3、使徒職の印

そこでパウロは自分が使徒である事をもっとはっきりと証明する証拠を出す必要があります。そこでコリント教会の「あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか」と問います。使徒であるパウロがコリントで伝道してあなたがたはクリスチャンになったのではないのか、「あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職、使徒であることの印なのである」。

あなたがたのクリスチャンとしての存在がわたしの使徒職の証明であると。そしてパウロは、わたしは、ほかの人に対しては使徒ではないとしても、少なくとも、あなたがたには使徒である、と言います。コリント教会員も自分たちがクリスチャンである事がパウロが使徒である事の印と言われると反論し難い感じがします。

それではパウロは現代の私たちに取っては使徒なのでしょうか。別にどちらでも良いのでしょうか。良くはありません。それはなぜパウロの手紙が聖書になっているのかということです。どうしてパウロという人間が書いた手紙を、神である主イエスの言と同じ権威のある言葉として、こうして礼拝説教で聞くのでしょうか。

私も手紙を書く事がありますし、茂原教会の機関紙の「ぶどうの木」等に文章を書く事があります。もし将来的に第二の聖書みたいな物が出来たとして、私の書いた手紙やぶどうの木の文章が第二の聖書に含まれる可能性はあるのでしょうか。可能性は0.1%も有りません。何故ないのでしょうか。私の文章が上手くないからではありません。例え文章が上手な山脇先生の文章でも聖書に含まれる可能性はありません。それは聖書は使徒という、「特別な使命を帯びて派遣された者」を通して啓示された神の言だからです。山脇先生も私も聖霊の導きによって文章を書きますが、聖書になるための、特別な使命を帯びて派遣された使徒への啓示の文章とは異なるものです。使徒に啓示された手紙であるからこそ、主イエスの言である福音書と同じ権威で聖書となっています。

パウロが使徒でなければパウロの手紙が聖書になることはありませんでした。また私たちも人間が書いた手紙を聖書として読む事はありませんでした。

4、現代における使徒

それでは現代において使徒はいるのでしょうか。使徒が現在もいると考えるグループが大きく二つあります。一つはカトリックです。カトリックのローマ教皇は使徒ペテロの後継者とされていて、使徒権、使徒の権威を継承していると考えられています。しかし現在も使徒がいるとなると、どの様な事が起こってくるでしょうか。

使徒であるパウロ、ペテロ、ヨハネ達の手紙は聖書となっています。つまり使徒の言葉は聖書と同じ権威を持ちます。ですからカトリックではローマ教皇の言葉は聖書と同じ権威を持っています。またローマ教皇を含めた教会会議の決定事項は聖書と同じ権威という事になります。

この事の優れた点はローマ教皇やバチカンが右と言えば、統率が取れて世界13億人と言われるカトリックの信徒が右を向くということです。プロテスタントの様に万人祭司と言って、それぞれが自由に考えてばらばらで統率が取れないという事はありません。

またもう一つのグループというかネットワークはプロテスタントで使徒を認定する人達です。プロテスタントは万人祭司でそれぞれが色々と考えて多様性があって専門性がある事は良い事です。例えばバプテスト派はバプテストについて深く研究して、ペンテコステ派は異言について詳しく、ホーリネスはきよめ、聖化に詳しいものです。カトリックは儀式等に詳しいものです。

そういう意味で使徒を認定する人達が使徒の研究をして、現代のキリスト教会に生かせる部分を活用する事は良い事です。しかし先程カトリックの事でお話した様に、現在も使徒がいるとなるとその使徒の言葉は聖書と同じ権威を持つことになります。

それは5百年前に宗教改革を行って、信仰の源泉を「聖書のみ」としたプロテスタントの宗教改革に真っ向から反する事です。もしかすると宗教改革を行き過ぎてしまって、1周回ってカトリックに戻ってしまった様な感じもします。使徒の権威を使って中央集権的なネットワークを作って統率を取ろうとしている様に見えます。

新約聖書時代の様な使徒が奇跡としるしを行ったダイナミックな力を現代に蘇らせたい気持ちは分かります。しかし黙示録22:18に、「聖書に書き加えてはならない」とありますので、聖書は閉じられたものです。それはつまり聖書に言葉を加えたり、聖書と同じ権威を持つ使徒は新約聖書時代よりも後は存在しないという事です。プロテスタントで宗教改革を行ったルターもカルバンも偉大な神学者であるウェスレーもバルトも、大きな働きをしたキング牧師もマザーテレサも決して自分は使徒だと名乗る事はありませんでした。それは聖書的に有り得ない事で二千年近く続いていることです。もしも聖書と同じ権威を持つ使徒が後の時代に登場するのであれば、それははっきりと聖書に預言されていたはずです。

しかし聖書には、その様な事は書いていなくて、逆に、「にせキリストたちや、にせ預言者が起こって、大いなるしるしと奇跡を行い、できれば、選民を惑わそうとする」(マタイ24:24)とありますので慎重な判断が必要です。

ただ私たちは自分達と少しでも違う考えを持つ人たちを否定して拒否するのではなくて、理解する様に努めて、救い主イエスを信じる同じクリスチャンとして協力出来る部分で協力を行って行く必要があります。

5、使徒の権利

パウロの批判者たちに対する弁明は、これである、と言いますが、「これ」は3節の前の事とも後の事とも考えられますが、両方を含んでいる様に思われます。「特別な使命を帯びて派遣された者」である使徒ですが、3つの権利が挙げられています。飲み食いをする権利、信者である妻を連れて歩く権利、労働をせずにいる権利です。

ただ3つと言っても、一つ目の飲み食いをする権利と三つ目の労働をせずにいる権利は、教会に生活を支えられて伝道に専念する権利ですから同じ事です。パウロはこの権利を使いたいと主張しているのではありません。

実際パウロは伝道を始めても天幕造りの仕事をしていたと書かれています(使徒18:3)。伝道に専念したいパウロにとってジレンマを感じる決断だったかも知れません。ただパウロはここで、伝道に専念する権利はあるという事を確認しているだけです。

そしてケパ、ペテロやほかの使徒、主の兄弟たちのように信者である妻を連れて歩く権利がないのかとも問います。この権利もパウロは使いません。この話は来週にも続いて行きますが、私たちは自由や権利があるとそれを使う事ばかりを考えてしまいがちですが、同時に使わない自由と権利もあります。

どちらが主の御心に適う事であるのか、どちらが神の栄光をあらわす事になるのか、聖霊の導きの中で主の御心を求めて、聖霊の力を頂いて歩ませて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神さま、パウロは「特別な使命を帯びて派遣された者」である使徒としての権利がありますが、その権利を使おうとはしませんでした。私たちは時に自分の自由と権利だけを主張して、責任や役割には目を瞑ってしまう様な弱い者です。

私たちも聖霊に力を頂いて、パウロの様に例え権利を持っていたとしても敢えてそれを使わず、あなたの御心に沿った生き方をし、あなたの栄光を現す者とさせてください。

主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。