愛の賜物

2021年1月1日
コリントの信徒への手紙一13章1~7節
        
主の御名を賛美します。新しい年となりました。今年も宜しくお願い致します。元旦からユーチューブによる配信となりましたが、このように共に礼拝出来ることを感謝致します。いくつかの教会と連絡等をする中で、千葉県内のホーリネス教会の状況も聞きました。

教会によってそれぞれ事情が違いますが、かなり前からオンラインの礼拝にしていたところもありますが、私たちと同じように今月からまた12月の終わりごろからオンラインの礼拝に切り替えたところもいくつかあるようです。感染が広がっていますが、皆さんの健康が守られますようにお祈りしています。

1、愛がなければ
講解説教で御言を聴かせて頂いていますが、今日は元旦礼拝ですので少し先の13章で、12章の終わりは明後日に戻ります。先週は12章全体も中心構造になっているとお話しましたが、実は12~14章も中心構造になっていて、12章は霊の賜物についてで、それに対応する内容が14章です。

今日の個所は愛についての有名なところですが、霊の賜物の中心の内容として書かれたものです。霊の働きの目的は12:7の「全体の益となる」ためです。その目的に従って霊の賜物のリストが12:8から9つ、霊の賜物を用いるリストが12:28から9つ挙げられています。

パウロは1~3節で、たとえ自分がそれらの賜物の働き人として用いたとしても、愛がなければ無に等しく何の益もないと、3回繰り返して強調します。そして例として賜物を7つ、賜物を用いる行いを2つ挙げます。

コリント教会では霊の働きとして異言を重視していましたが、両方のリストで異言を語り、解き明かすことは、全体の益となる目的から見て、一番最後に置かれています。しかしコリント教会が重視している異言を今回は初めに持って来ます。

しかし異言を語ろうとも愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバルと同じで、何を言っているのか意味も分かりませんし、うるさくて迷惑なだけです。どらやシンバルは異教の礼拝で、神の気を引くためや、悪霊を追い出すため、礼拝者を興奮させるために使われました。

愛のない異言はそれらと同じです。因みにどら息子の、どらの語源は諸説ありますが、遊郭等で客引きにどらが使われていたところから来ているという説もあります。次の「預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても」というのは、12:8、10からは、預言、秘義、知識の3つの違う賜物とも考えられます。
しかし預言する、つまり神の言を預かる力を持つこと、は、あらゆる秘義と知識に通じていることとも読めます。パウロの姿を見ていると後者の意味のように思えます。秘義と知識は主イエスが宣べ伝えた福音の内容です。

8:1にも、「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます」とありました。また、山を移すほどの信仰というのはユダヤの表現で、大きな信仰の意味です。それらも愛がなければ無に等しい、無いのと同じです。

また全財産を人に分け与えるとは、マタイ6:1~4にあるように施しをすることです。そこにも人から褒められようとしてはならないとあります。また焼かれるためにわが身を引き渡すとは殉教です。施しと殉教は美徳、名誉と考えられていましたが、愛がなければ自分には何の益もなく、報いはありません。

ここには7つの賜物、人々の異言、天使たちの異言、愛、預言、秘義、知識、信仰と、2つの行い、施しと殉教の合わせて9つが出て来ました。パウロは12章で霊の賜物、霊の働き人について語りましたが、最後の31節で、もっと大きな賜物を熱心に求めなさいと勧めました。そのもっと大きな賜物は愛でです。愛なしにはどんな賜物も、行いも価値がありません。

2、愛の性質
愛が最高の価値をもつことは分かりましたが、愛はどのような性質を持つのでしょうか。ところでここで愛の性質がこの後に出て来ますが、愛とその性質は抽象的な表現で少しぼんやりとしているかも知れません。ここでいう愛はアガペーで、神の愛です。

神の愛とは何かと言いますと、ローマ5:8の、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」という、罪人を救うために、神の独り子であるキリストが犠牲となられたものです。

またその愛は福音書の主イエスの生き方に現わされています。愛の性質等をお話しますと、「そうなんだよなー全くあの人は」と他の人のことを思い浮かべて考えたりします。しかし愛(I)ですから、他の人ではなく、自分のこととして聴く必要があります。

主イエスの生き方を思い出しながら、また自分のこととして、聖書の中心的教えでもある愛の性質の御言を聴かせて頂きましょう。パウロはここで論文を書いているのではなくて、コリント教会に伝えたいことを手紙として書いています。

抽象的は言い方が具体的に何を意味しているのかを考えながら聴かせて頂きたいと思います。初めに二つの肯定の表現で、愛は忍耐強い、情け深いものです。忍耐強いというのは、7節の「耐える」があきらめないで能動的に耐えることに対して、忍耐は仕返しをしないで耐えることで、新改訳は寛容と訳しています。また情け深いを新改訳は親切と訳しています。主イエスの生き方が思い浮かびます。
この後は愛の性質を8つの否定で表現しますが、初めの4節の3つは隣り人に対する心の中の問題です。妬まないというのは、12:15の足が手を妬んだり、12:16の耳が目を妬んだりと他の賜物を妬まないことです。

自慢せず、高ぶらないは、12:21の、目が手にお前は要らないとか、頭が足にお前たちは要らないと考えたりしないことです。これらは一つの霊によってキリストの一つの体であり続けることをなくした時に起こることです。

5節からの5つは隣り人に対する行いの問題です。礼を失する行いとは、11:5で女が祈りや預言をする時である礼拝で頭にかぶり物を着けないことや、11:21で教会の集まりで各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいることです。

自分の利益を求めないは、10:24にありました。それは偶像に献げた肉を食べることで誰かを躓かせるなら、自分は問題無いと思っても食べないで自分の権利を使わないことです。
怒らずは忍耐強いことでもあります。怒るとは6:1にあった様に、不正を受けたら直ぐにこの世の裁判に訴え出る様なことです。また6節の不正で言えば、6:8で裁判ではコリント教会員が不正を働き、奪い取っていると言います。それらは愛に基づく行いではありません。

悪をたくらまないという文章は、教会共同訳の様に、自分が悪をたくらまないとも考えられますし、新改訳の様に、人がした悪を心に留めないという意味にも考えられます。いずれにしても、神の救いの恵みに生きる者として悪から離れる者です。

不正を喜ばずの後からは、否定からまた肯定の文に戻ります。愛は真理を共に喜びます。先日、女性にある名前の話をしましたが、愛と真理はあります。愛さんと真理さんという仲の良い友達が遊んでいる様に、愛と真理は共に喜ぶ良い仲です。

3、すべてを
そして愛の性質としての纏めは、「すべてを」繰り返して、忍び、信じ、望み、耐えます。忍ぶには覆うという意味もあって、愛は諦めません。それは人間がいくら不従順でも神が救いの手を差し伸べ続けてくださる姿です。忍ぶが現在的な意味であるのに対して、耐えるは将来的にも耐える様な意味です。

すべてをの4つの中心は、すべてを信じ、望むことです。これは13節の、信仰、希望、愛に繋がることです。すべてを信じ、望むというと、何か少しお目出たい人と思われてしまうかも知れません。これは何でも楽天的に考えて生きることではありません。
それは何か怪しそうな時、可能性が少ない時にも、神を信じて、神に望みを置いて信じることと望むことを止めないことです。例えそれが自分の思う様に上手く行かなくてもすべてを忍び耐えるのが愛です。しかしそれは、「言うは易く行うは難し」です。しかし本当に愛があるのなら出来ることです。そのお手本は主イエスが十字架に付けられる姿を通して私たちに示してくださいました。

4、愛の賜物
去年、何度かお話しましたが、アイフルのコマーシャルで、「そこに愛はあるんか」という台詞がありました。改めて考えさせられました。「そこに愛はあるんか」という台詞の「そこに」というのは一体どこのことを指しているのでしょうか。

今日の1~3節で言えば、7つの賜物と2つの行いの中にという意味でしょうか。しかし例えば自分の行いの中に愛があるかと問われた時に、根本的な問題となるのは、行いの前にまず自分自身の中に愛があるのかということです。

そもそも自分自身の中に愛が無いのであれば、愛のある行いが出来るはずがありません。あなたの中に愛があるんかと問われたら何とお答えになられるでしょうか。ピコ太郎であれば、「アイハブ愛」と答えるかも知れません。

しかし真剣に「あなたは愛があるんか」と問われて、正直に答えるとしたら、「ありますよ。少しは」とか「無くは無い」と答えるのが精一杯ではないでしょうか。12:8からの賜物のリスト、今日の1~3節の賜物と行いのリストが9つであることは象徴的です。

9つは英語でナインで、これらは人間の中にはナインです。
しかしそれで良いのではないでしょうか。なぜかというと12:31にある様に、愛は賜物だからです。賜物は神から賜るもので、人間自身の中には無いものです。自分の中には愛は無いことを素直に認めて初めて、神に私に愛の賜物を与えてくださいと求めることが出来るのではないでしょうか。

マタイ7:7で主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる」と約束されました。神は私たちが求めるのを待っておられます。素直に私に愛の賜物を与えてくださいと求めて、愛も持って今年も歩ませて頂きましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはもっと大きな賜物を熱心に求めなさいと言われて、愛を示されました。私たち一人一人に愛の賜物を与えてください。そして愛を持って今年一年を歩んで行けますようにお導き下さい。
今、再び広がりつつあるコロナウイルスが本当に早く収束しますようにお導きください。
主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。