キリストの体でありその部分

2020年12月27日説教 
コリントの信徒への手紙一12章12~27節

        
主の御名を賛美します。今日は今年最後の礼拝となりました。今年は本当に思いも寄らぬ年となりましたが、神のお守りの中で、皆が協力して教会のここまでの歩みが守られたことを感謝しています。来年は初めから見通せない部分もありますが、神を見上げて、御声を聴きつつ歩ませて頂きたいと思います。

1、一つの霊
12章全体は霊の賜物についての内容ですが、前の4~11節は中心構造で書かれているとお話しました。中心構造というのはハンバーガーの様に、真ん中を中心に前後が対照的な内容になるユダヤの文学形式です。12章全体も中心構造になっていて、1~11節が賜物の具体的な内容があって、それに対応する内容が28~31節になっています。

今日の個所は聖書の中でも有名なところですが、それは霊の賜物の中心の内容として書かれたものです。一つの体は多くの部分から成っています。しかし体のすべての部分は多くても一つの体です。その後の「キリストの場合も同様です」というのは、同様だけにどうよう意味でしょう。

それは今日の中心聖句で「あなたがたであるクリスチャンの集まりである教会はキリストの体であり、一人一人はその部分」であるということです。エフェソ1:23は「教会はキリストの体である」とはっきりと言います。いつそのようになるのでしょうか。洗礼を受ける時にです。

洗礼を受ける時に三位一体の一つの霊によって、一つのキリストの体となるために、皆一つの霊を与えられます。それによって洗礼を受けるクリスチャンは皆、一つのキリストの体になります。さて一つの体は多くの部分からなっています。

2、自己卑下
しかし足が「足だけにあっしは手ではないから、体の一部ではない」と、手だけに勝手なことを言ったところで、体の一部でなくなるのでしょうか。耳が「私は目ではないから、めーないではなく、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるのでしょうか。

と答えの分かり切った質問をします。ここで、足、手、耳、目はそれぞれどの様なことを意味しているのでしょうか。手は人前で器用に色々なことをしたりして足よりも目立つ存在です。目は顔の正面にあって頭の横にある耳よりも目立つ存在です。

コリント教会では異言を語る者等が自分は霊の人であると思って高ぶっていました。その一方で、異言を語らない人は自己卑下して、屈折した思いで、自分たちはキリストの体である教会の一部ではないという思いで教会の一致を妨げていました。パウロはそういった考えの間違いを指摘します。もし体全体が目だったらどうでしょうか。
ラッツ&スターに言わせれば「め組の人だね~」です。体全体が目で目玉おやじみたいだったらどこで聞きますか。耳が無かったら耳だけにイヤー困ります。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。鼻がなかったら甚だ困ります。
そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれました。それは一つ一つの部分がそれぞれの役割を担うためです。体でそれぞれの部分が違う役割を担う様に、キリストの体である教会も違う役割を担うためには違う賜物が必要です。賜物に違いはありますがそこに優劣はありません。ですから多くの部分、役割があっても体は一つです。ここには部分と賜物には多様性がありますが一つの体であるという統一性があります。

3、高慢
また目が手に向かって「お前は要らない」とは言えません。目でいくら見えても、手が無ければ手だけに何も手に負えません。また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。頭でいくら考えても足がなければ手も足も出ません。

ここで、目、手、頭、足はそれぞれどの様なことを意味しているのでしょうか。先程の15、16節が自己卑下していたのと逆に高慢です。目は手に対して上から目線です。頭が足に対して偉そうでは、足は頭に来てしまいます。これはコリント教会に限らず、あらゆる教会や組織等で人の目に付く役割と賜物の与えられている人に対する戒めです。

4、弱く見える部分
22~24節で、体の中で弱く見える部分、つまらないと思える部分、格好の悪い部分、劣っている部分と言われているのは、具体的に体の中のどの部分のことなのでしょうか。これは内臓等のことと思われます。

内臓に対してつまらないと思える部分等というと、つまらなく内臓と言い返されてしまいそうです。内臓は体の外側の見える部分である顔等に比べて、体の内側にあって見えないので見栄えは良くないかも知れません。

お見合いの写真は大抵、見栄えの良い外見の写真を使うもので、いくら自分では気に入っていると言っても、お見合い写真に内臓のレントゲン写真を使う人は聞いたことがありません。しかし体の内側である例えば口は、冷たい物は氷を食べると共に、とても熱い物を飲んだりと、温度変化に対して強いものです。

体の外側に同じ温度の物を付けられたらとても耐えられるものではありません。また足、手、耳、目等は寝ているときは休んでいます。しかし心臓、肺等の内臓は24時間、365日休むことなく働き続けています。そして内臓の一か所が少し調子悪いだけで全身の調子が悪くなるもので、本当に大切な働きをしています。

また内臓の一つである胃は、胃酸で食物を溶かしたりする強い働きもありますが、とても柔らかい器官です。ですから、物理的な力等に対しては弱いので、体の内側にあって守られています。そのように神は体を一つにまとめ上げてくださいました。それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。スポーツ等で上手な人は体の一部分の力だけに頼ることをしません。全身を使ってバランスよく体の全身の部分の連携の取れる動きが出来る人は上手ですし、全身を使うので体の一か所を痛めることなくスタミナも続きます。

5、食べる
私たちは生きて行くためには体に栄養を取るために食べる必要があります。そのためにここまで出て来た体の部分の働きを考えてみたいと思います。まず食べ物を手に入れるためには足を使ってお店に行くなど移動します。そして料理をするには、手、目、耳、鼻等を使うでしょうか。

そして手を使って食べ物を口に運びます。食べ物を口が良く噛むのは、口のためだけと言うよりは消化吸収を良くするためです。そして腸が吸収する栄養は腸だけのためではなくて体全身のためです。

教会の働きも全く同じです。教会の働きは体の働きと同じ様に外側から見える働きと、外側からだけですと見えない働きがあります。外側から見える働きは、日曜日の礼拝で人の目に付く奉仕等でしょうか。体でいうと、手、目、口等の働きでしょうか。

教会にも外側から見えない体でいうと内臓の様な働きもあります。平日に教会に来て誰も見ていないところで行う奉仕などです。私は平日に教会の中を事務室に行くなど行ったり来たりしていますが、本当に地道に奉仕をしてくださっている方を見かけます。

また教会に来ることもなく、私の目に付くこともなく奉仕してくださっている方もおられます。教会の人を含めて教会のために祈ることは本当に大切な奉仕です。外側からだけでは分からないことです。もし体に内臓がなかったらどうなるでしょうか。内臓がないぞうでは済みません。体として生きて行くことが出来なくなります。

一人一人の役割が違っても優劣がある訳ではなくて、役割の違う人がいるからキリストの体として生きて行けます。役割の違う人同士が、自己卑下したり、高慢になったりすることなしに、分裂を起こさずに、お互に配慮し合うことが必要です。

6、一つの部分とすべての部分
一つの体で一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみます。頭が痛くなったり、お腹が痛くなった時に、手や足は関係なく運動出来るかと言えばそういう訳には行きません。体の少しの部分、例えば指の先が痛いだけで全身の調子は崩れていつも通りには行かなくなります。

ローマ12:15に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあります。人間の感情は難しいもので、喜ぶ者には妬みを抱いてしまったり、泣く者と同じ思いを持てなく感じることもあるものです。表面的な感情だけで共に喜び共に泣こうとするのは難しいことです。私たちは一つの霊である聖霊によって一つの体となる者です。一つの体であるならば、自然と他の部分と同じ感情になるものです。

私たちは洗礼によって一つの霊によって一つのキリストの体になる者です。しかし逆に言うと、一つの体であり続けるためには、一つの霊によって生き続ける必要があります。それには毎日、聖霊と交わり続ける必要があります。そしてこれは教会の霊の賜物について言われていることです。私たちはキリストの体であり、一人一人はその部分であることを覚えて歩みたいものです。

7、鶏口牛後
この聖書個所を読んでいて思い浮かぶのは、「鶏口となるも牛後となるなかれ」ということわざです。私はてっきり「鶏頭となるも牛尾となるなかれ」かと思っていたら、それは間違いだそうです。これはリーダーになることの勧めです。このことわざは聖書的にはどうなのでしょうか。

確かにポジションが人をつくるという部分はあると思います。それはその役職に就いた人はその役職に相応しく成長して行くということです。しかし人には持って生まれた性格があります。今日の聖書個所で言えば、与えられた賜物と役割です。

聖書的には全員が鶏口になる必要はないのではないかと思います。牛後となって、牛の大きな体を支えて大きな体全体のバランスを取るのも大切な役割であると思います。そしてまた賜物と役割は一生を通して変わらないものと、成長と共に変化して行くものもあります。

旧約聖書を見ても、ヤコブの息子のヨセフは、いきなりエジプトの宰相になったのではなくて、幼い頃は周りの空気を読まない発言を繰り返して、お兄さんたちから恨みを買ってエジプトに売り飛ばされました。ヨセフはエジプトでの苦労を通して色々と学んだ後に宰相へと神によって導かれました。

そのことは体でも同じです。例えば幼い時には餅つきで大きな杵を使えなくても、体が成長して大人になれば使えるようになります。また主イエスは大きな御業を行われましたが、いつもお一人で静まる場所に行かれて、父なる神の御心を求めて祈っておられました。

私たちも主イエスと同じように、それぞれの時に自分が何をすることが主の御心であるのか聖霊の導きを求め、また7節にあったように、全体の益となるための導きを求めて行く必要があります。それがわたしたちがキリストの体であり、一人一人はその部分であるという生き方です。

8、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たち一人一人は、神の目には高価で尊いと言われているのも関わらず、私たちは他の人と比べて、自分を卑下したり、高慢になってしまう愚かなものです。私たちは罪深い者であるにも関わらず、あなたの恵みによって一つの霊によってキリストの一つの体とされる者です。どうぞ日々の聖霊との交わりの中で、一つの体とされることを深く覚えさせてください。

そして私たちが一つの体として、お互いが配慮し合って行くことが出来ますようにお導きください。今、コロナウイルスの感染が拡大してゆく中で、教会に集っての礼拝を中止することとしました。
どうぞ教会での礼拝を再開する時の御心をお示しくださいますようにお祈り致します。
この礼拝に連なる方々がコロナウイルスに感染することがありませんように、また感染が速やかに収束して行きますようにお守りお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。