最も大いなる愛

2021年1月10日 
コリントの信徒への手紙一13章8~13節

        
主の御名を賛美します。ジグソーパズルというものがあります。ジグソーパズルの始まりは今から250年位前にロンドンの地図の職人が地図を板に貼って、糸鋸で切って、ピースを組み合わせると地図が完成するものだったそうです。ジグソーパズルのジグソーは板を切る糸鋸のことです。

ジグソーパズルはピースが一部分だけで全部が揃っていないと、完成の絵は良く分かりません。私たちが生きている世界はピースの一部分だけが与えられているように不完全で、良く分からないこともあるように思えます。

1、愛の永続性と霊の賜物の一時性
少し順番が前後しましたが、13章1~3節の霊の賜物を持っていたり、施しや殉教の良い行いをしても愛がなければ無に等しいもので、愛は全てにおいて必要不可欠なものです。また4~7節では愛の性質が肯定の言い方と否定の言い方と合わせて15個挙げられました。

8節からは愛と他の賜物が比べられます。8節は愛と他の賜物はいつまで続くのかという、有効期限についてです。マタイ5:18は、「天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」と言います。

律法は神の言であって、神の言は永遠なる神そのお方ですから実現するまでは消えうせることはありません。では愛はどうでしょうか。ヨハネの手紙一 4:16は「神は愛です」と言います。愛は永遠なる神のご性質です。神は永遠なるお方ですから、そのご性質である愛も永遠に続きます。愛は決して滅びることがなく、永遠に続く永続性があります。有効期限は無期限です。

ではコリント教会が大切に考えている霊の賜物である、預言、異言、知識はどうでしょうか。預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。廃れるというのは、役にたたなくなるという意味で、やむというのは終わるという意味です。愛には永続性があるのに対して、霊の賜物は一時的なもので有効期限があります。

2、預言と知識は一部分
霊の賜物はなぜ一時的なものなのでしょうか。それは私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。私たちは聖書の御言を通して、色々な知識を得て、預言も知ります。しかし正直なところ、全てを完全に理解するというのは難しいものです。
その理由の一つは聖書に書かれているのは一部分であって、全部は書かれていないからです。これはコリント教会が考えていたことと大きく違います。コリント教会はもう既に終末の時を迎えていて、自分達は霊の賜物である預言、異言、知識も与えられて完成された者であると思っていました。

しかし完全なものが再び来た時には、部分的なものである知識や預言は廃れます。それはそうです。ジグソーパズルでいうと、一部分と完全の違いは、ピースが全部揃っているかいないかの量的な意味での違いです。

ここでいう一部分と完全は量的な意味での一部分と完全と質的な意味での一部分と完全の2通りの意味があります。そのことを2つの例を使って説明します。

3、例1(幼子と大人)
一つ目の例で、幼子だったときには、パウロに限らず誰でも幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えます。しかし大人になったときには、幼子のような在り方はやめるものです。やめるという言葉は原語では廃れると同じ言葉です。

ここでは部分的なものが幼子で、完全なものが大人に相当します。そして幼子は大人より不完全で未成熟という意味です。いやー私は幼子の時から余り変わっていませんよと思われる方もおられるかも知れません。

基本的な性格等は余り変わっていないかも知れませんが、自分でも余り気付かない内に外見も含めて変わっているものです。幼子だったときに、幼子のように話し、思い、考えるのはなぜでしょうか。それは知識が一部分であるからです。

ここでは幼子と大人のどちらが純粋で良いのかというようなことを言っているのではありません。大人になれば幼子より知識は増えるものです。しかしコリント教会が完成された者として誇りとしている知識は幼子のような部分的なものです。

またコリント教会が誇りとして話していた預言と異言も幼子のような不完全な話です。つまりコリント教会が求めて誇りとしていた賜物は廃れてしまうもので、もっと完全なものを求めるべきです。しかしそうすると預言と知識が廃れて、異言がやむ、有効期限が切れるのは一体いつのことなのだろうかという疑問が湧いてきます。

段階を分けて考えることが出来ます。預言は広い意味では神の言を預かって語ることですが、狭い意味では将来に起こる出来事を予告することです。将来に起こる出来事を予告する狭い意味での預言、それと異言は大体、二世紀の終わり頃になくなったと言われます。
二世紀の終わりというのは新約聖書が大体揃って来た時です。ですからここでいう完全なものというのは新約聖書のことであるというのが一つの考え方です。新約聖書の成立によって部分的なものは廃れたと考えます。しかしこれはまだ第一段階のように考えられます。

4、例2(鏡)
二つ目の例で、私たちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ています。現代の私たちがこの譬えを読むと、鏡に映ったものがなぜおぼろげなのだろうと感じてしまいます。鏡は十分にはっきりと映しているのではないのかと。

しかし二千年前の当時の鏡は金属を磨いた物ですから、はっきりと映らないでおぼろげです。さらに鏡は左右が反対に映ります。しかし“その時”には、顔と顔とを合わせて見ることになります。顔と顔とを合わせて見るその時というのは、主イエスが再びこの世に来られる終末以外には考えられません。

そうしますと新約聖書の成立で第一段階の完成で、この世の終わりの終末で完全なる完成になります。ところでここの8~13節も中心構造で書かれていることにお気付の方もおられるかも知れません。11節と12a節は同じような例です。この後の12b節は、9、10節に対応する内容です。

鏡の例の後半で、パウロを含めて私たちは、今は一部分しか知りません。その理由は9節の「私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです」。そしてマタイ10:30によると、私たちは髪の毛の数まで神にはっきり知られています。

しかしその時である終末には、私たちは同じようにはっきり知ることになります。
何を知るのでしょうか。神をです、髪の毛の数ではないでしょう。

例1は話すこと、例2は見ること、知ることの例です。例1の話すことは8節の異言、そして預言は先を見るという意味がありますので、例2の見るは預言、知るは知識の例と言えます。終末に完全なものが来ると、預言、異言、知識の賜物は廃れます。これはなぜなのでしょうか。

霊の働きの目的は、12:7で全体の益となるためです。では全体の益となるための目的は何でしょうか。それは10:33bで、人々が救われるためです。霊の賜物は人々の救いのために用いられます。しかし終末になると救いも完成して霊の賜物はその役割を終えて廃れます。

5、信仰、希望、愛
それでは廃れたり、やむことなく、いつまでも残るものはなんでしょうか。それは、信仰と、希望と、愛の三つです。この三つはなぜいつまでも残るのでしょうか。愛は初めの8節でお話しましたようにヨハネの手紙一 4:16の「神は愛です」の通りに永遠の神のご性質そのものです。

そして私たち人間も、今年度の茂原教会の御言の通りに、神のかたちに造られました。私たちは永遠の命を与えられて、神と共に愛として永遠に生きる者です。私たちが永遠の命を与えられるのは神の愛である主イエスの十字架によって救われるからです。

マタイによる福音書22章で、最も重要な戒めを尋ねられた主イエスは、第一は神を愛すること、第二は隣人を愛することと、愛が全てであると言われました。最も大いなるものは愛です。そして最も大いなるものであり、滅ぶことのない愛から出て来るものはいつまでも残ります。

それは信仰と希望です。ここでいう信仰は救われるためのイエス・キリストを救い主と信じる信仰の意味とは少し違います。救われて天国に行っても愛する神を信頼し続ける信仰です。そして天国に行ったら希望が達成されてなくなるのではなくて、恵みに溢れる希望が続きます。

またこの個所には書かれていませんが、愛から出て来るものと考えると、4~7節のことや、ガラテヤ5:22の霊の結ぶ実はいつまでも残るのではないかと思われます。

私たちは人の目に付く、霊の賜物である預言、異言、知識等に目を奪われて、求めがちです。しかし最も大いなる賜物である愛は、聖霊の満たしの中で熱心に求めれば誰にでも与えられるものです。そして愛に基づく信仰と希望はいつまでも残るものです。この世で人の目に留められても廃れてしまうものではなくて、神のご性質である愛を求めて、愛を持って神と共に生きる者とさせて頂きましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはあなたの恵みにより神のかたちに造られ、あなたと同じ愛に生きることが求められています。私たち自身の力ではその様なことは出来ませんが、あなたの愛によって私たちを救い、愛によって生きる道を開いてくださり有難うございます。私たちが聖霊の満たしの中で、あなたの愛に応答して愛に生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。