教会を造り上げるために

2021年1月17日
コリントの信徒への手紙一14章1~12節

        
主の御名を賛美します。毎年、年末か年始に私たち家族は少し休みを頂いてそれぞれの家族に挨拶に行っていましたが、今年はコロナの影響によって止めました。私の横須賀の実家はとても古くてぼろぼろですが海の近くの高台にあって、家の前からは海上自衛隊の船が見えます。

海上自衛隊等ではラッパや汽笛で合図が決まっています。私自身も学生時代に練習船に乗っていたこともあって、横須賀に帰って船の音が聞こえると、ああ帰って来たと実感します。船の音が聞こえないのがこれ程懐かしく感じるとは、何か年を取ったような思いです。コロナが落ち着いたら帰りたい気がします。

1、結論
今日から14章に入りますが、元々は12:1でコリント教会が「霊の賜物について」質問して来たことに答える内容の続きです。パウロはコリント教会の質問に対して直ぐに直接答えるのではなくて、12章では霊の色々な賜物について広く説明して、13章では最も大いなる賜物は愛であることを説明しました。

その様に入念な下準備をした上で本題に入って行きます。それだけの下準備をするということはそれなりの理由があるからです。相手が信じていることと違うことを勧める場合には、慎重な準備が必要です。そして結論を短く一言で「愛を追い求めなさい」と言います。

その理由は13章から明らかです。愛は最も大いなる賜物で、求めれば誰にでも与えられるものだからです。また霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい、です。この1節がコリント教会からの質問に対する答えです。後はこの答えについての説明です。

2、異言
37節を見るとコリント教会では、自分は預言者か霊の人である思っている者が教会の礼拝や集会の秩序を乱していました。そのことについてどうしたら良いかとパウロにアドバイスを求めて来たようです。そこでパウロはまず、コリント教会が霊の賜物として重要視している異言について説明します。

異言を語る者は、人にではなく、神に向かって語っています。異言は普通の人には意味が分かりませんので、異言の分かる神に向かって語ることになるでしょう。しかしその後の、「誰も聞いていないのに、霊によって秘義を語っているからです」というのは面白い言葉です。
神に向かって語っているけれど、誰も聞いていないというのは、神を含めて本当に誰も聞いていない、独り言の様なものかも知れません。確かに全能なる神に向かって人間がいくら秘義を語っても何も意味はないかも知れません。

3、預言
それに対してパウロがコリント教会に求めることを勧める預言についてはどうでしょうか。
ところでパウロが預言の賜物を求めることを勧めるとはどういう意味なのでしょうか。12:29で、「皆が預言者でしょうか」と言っていた通りに、人によって与えられる賜物は違います。

果たして預言の賜物を熱心に求めたら、旧約聖書で将来の出来事を予告した有名なイザヤやエレミヤのように皆が預言者に成れるのでしょうか。ここで気を付けることは、聖書では同じ言葉が使われていても、意味が少し違う場合があるということです。その個所ではどの様な意味で使われているのかを良く考える必要があります。

ここでの預言する者は、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって語ります。「人を造り上げ」を新改訳は「人を育てる言葉」、「励ます」を「慰め」と訳しています。つまりここでパウロが勧めている預言は、旧約の預言のような将来の出来事を予告するというよりは、今パウロが行っているように、神の言である聖書の御言を預かって解き明かす説教に近いものです。

そしてパウロはこの聖書の御言を解き明かす預言の賜物を熱心に求めなさいと全ての人に勧めます。預言というと大袈裟に聞こえてしまうかも知れませんが、聖書を知っているクリスチャンは誰でも、多かれ少なかれ、人を育て、人を慰め、励まし、勧める聖書の言葉を口にするものです。

茂原教会に限らず多くの教会で説教をするのは牧師だけではなくて、子ども礼拝、教会学校では多くの教師が説教を行います。説教は神の言を預かって語ることですから広い意味での預言です。子ども礼拝の説教は現在だけではなくて、以前されていた教師を含めると多くの人が担われていると思います。

そして特に子ども礼拝での説教だけではなく、色々な機会に聖書の言葉を語ることはクリスチャンであればあると思います。そしてその様な聖書の言葉を語る預言の賜物を熱心に求めなさいと勧めます。

預言は愛である神の言を語ることですから、預言の賜物を求めることは愛を求めることです。そして愛は求めれば与えられるものですから、神の御言を預言する賜物も求めれば与えられます。

異言を語る者は霊の働きによって自分を造り上げますが、他に人には何を言っているのか分かりませんので何の益にもなりません。しかし預言する者は教会を造り上げます。ここの教会という言葉は人の集まりという意味ですから、預言は人を造り上げて成長させます。また預言である御言を語ることは、まず御言を語る自分を造り上げます。預言が自分を造り上げることは、異言が自分を造り上げることに勝るとも劣らないものだと思います。

そして13:5にあったように、愛は自分の利益を求めないのですから、愛は異言ではなく預言を求めます。パウロの言うことは一貫しています。8~10章の偶像へ献げた肉を食べることについての結論は、10:33で「多くの人の利益を求める」です。また霊の働きの目的も12:7で「全体の益となるため」です。14章ではそれを、「教会を造り上げるため」と3回繰り返して強調して言います。

しかしパウロはコリント教会の皆に異言を語ってほしいと思うと言います。しかし12:30で言っていた様に、皆に異言の賜物が与えられる訳ではありません。それでは、どういう意味で言っているのでしょうか。異言は霊の賜物ですから、無いよりはあった方が良いということでしょう。

またもう一つはコリント教会で語られている異言が、本当に霊の賜物による異言であってほしいという願いも込めていると思われます。逆に言うと、コリント教会で語られている異言が本当に霊の賜物によるものであるのか疑問を感じているようにも思えます。
なぜなら本当に霊の働きであれば教会を造り上げるはずであり、教会の秩序を乱すことは有り得ないからです。異言は自分を造り上げるだけですので、「教会を造り上げるため」には、預言することを望みます。異言を語る者が、教会を造り上げるためにそれを解き明かすのでなければ、預言する者の方がまさっていますと、はっきりと言います。

4、異言の説明
そして異言を語ることで、自分は霊の人であると思っているコリント教会に対して、この後に少し厳しいことを言いますので、いつもの様に優しく「きょうだいたち」と呼びかけを入れて、異言について詳しく説明します。形としては疑問文で問い掛けながら考えさせます。

パウロがコリント教会に行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかの意味の伝わる言葉によって語らなければコリント教会の何の役にたつでしょう。何の役にも立ちません。13:1の騒がしいどら、やかましいシンバルと同じです。そのことを楽器を例にして説明します。

笛や竪琴のような命のない楽器、楽器は物ですから命はありません。もし、その音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、分かりません。しかし言葉を持たない楽器でも、意味のある音の変化があると、私たちはメロディーの意味を理解して感動したりもするものです。

ラッパもはっきりした音を出さなければ兵隊はきちんとした行動を取れません。海上自衛隊でもラッパのメロディーによって起床や食事等が決まっています。はっきりとした音でなければ戦闘態勢に入ることも出来ません。 

同じように、異言ではっきりしない言葉を語れば、意味が通じませんので、話していることを分かってもらえません。それは空に向かって語ることになって、2節にあったように誰も聞いていません。世界には実に多くの言語があって、大体6900言語あると言われます。しかし意味のないものは勿論一つもありません。それはそうです。原語は意味を伝える手段だからです。動物などでも色々な声を使ってコミュニケーションを取ります。ですから、もしその言語の意味が分からないなら、話し手にとって私は外国人です。また私にとってはその話し手も外国人ということになります。説教も気を付けないと例え日本語でも意味が分からないために、違う意味で異言となってしまう可能性がありますので注意が必要です。

ただ説教が異言となる場合には、騒がしいどら、やかましいシンバルになるのではなくて、心地よい子守唄となって眠りに誘うようです。そういう意味では説教に限らずに、私たちが何か話をする時には、自分が話したいことを話すのではなくて、3節の、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって、相手のことを思って語ることが大切です。

5、結論
同じように、私たちも霊の賜物を熱心に求めているのなら、教会を造り上げるために、という目的をいつも覚えておくことが大切です。霊の賜物を求めても、それが自分を造り上げるためだけになってしまっていて、他の人に対する愛がなければ、それは無に等しく、何の益もないものです。

そこでパウロは、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい、と勧めます。ところで、ますます豊かに受けるように求めなさいと勧める、それをとは、何をなのでしょうか。それは明らかに、教会を造り上げるための霊の賜物です。

そして具体的には初めの1節で結論を言っていたように愛と預言の賜物です。そして異言でも良いのですが、それは5節の後半に書かれていたように解き明かす必要があります。私たちは救い主イエス・キリストを信じることによって、神の恵みによって霊の賜物を与えられます。

しかしそれは教会を造り上げるためです。私たちが与えられた賜物を用いる時には、自分を誇って自分を造り上げるのではなくて、聖霊の導きの中で、本当に人を造り上げているか、勧めをなしているか、励ますためであるか、相手を思って相手に向かって語っているか確認しつつ歩ませて頂きましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。コリント教会は自分を霊の人であると思って、異言の賜物を誇って、教会の秩序を乱していました。私たちはあなたの恵みによって人それぞれに色々な賜物を与えられています。

それは教会を造り上げるためですが、私たちはつい自分を誇ったり、自分を造り上げることに傾いてしまう弱い者です。私たちがいつもあなたと交わり、あなたの求める教会を造り上げるために、私たちが霊の賜物を用いますようにお導きくださり、また霊の賜物をお与えください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。