平和の神

2021年1月31日
コリントの信徒への手紙14章26~33a節

主の御名を賛美します。テレビ等で超自然的な現象である、例えばミステリーサークル等を取り上げることは時代によって内容は多少変わりますが、いつの時代でもあることです。それは多くの人が関心を持つからです。作られた原因は自然現象から宇宙人が作った等色々とあります。

一つのエンターテイメントとして楽しむ程度なら良いのですが、もしも宇宙人が作ったというのであれば理性による正しい識別が必要になります。アメリカではQアノンと言われる人たちによる暴動等がありましたが、先週の20節にあったように、物の考え方については子ども、幼稚であってはならず、大人になる必要があります。

1、教会を造り上げるために

コリント教会は異言を霊の賜物として重要視していました。しかしパウロは1節で愛と、御言を語る預言の賜物を求めることを勧めました。パウロは異言等についてさらに指示を与えますので、コリント教会に気を使って、14章で6、20節に続いて3回目の「きょうだいたち」と呼び掛けをします。

これはあなたがたを責めるためではなくて、きょうだいたちとして親身に伝えることですという意味です。そして15節に続いて、2回目の「どうすればよいでしょうか」と問い掛けます。パウロは原理原則だけを言うのではなくて、現実に何をどうすれば良いのかというフォローをして、コリント教会が正しい方向に進むように具体的に手取り足取り、丁寧に指導を行います。

コリント教会は集まるときである集会で具体的に何をしているのでしょうか。それぞれほめ歌、神をほめたたえる歌を歌います、賛美することです。そして教え、神の教えを説きます、説教です。啓示を語り、は預言です。そして異言を語り、それを解き明かします。ここでも異言は解き明かすことをはっきりと明記します。

ここを見るとこの時にコリント教会の集会でどのようなことをしていたのかが分かります。ここで五つのことを挙げているのは13~19節の五つの言葉に対応しています。パウロは13~19節で、異言の解き明かし、祈り、ほめ歌、祝福、感謝を理性の言葉によって語るほうを取ると言っていましたが、コリント教会はこの五つのことを行っています。

強調点に違いはあっても良いのですが、その目的は4節にもあったように、「すべては教会を造り上げるためにすべきです」。例えパウロが挙げた五つのことをしたとしても、「教会を造り上げるために」という目的から外れて、自分の賜物を誇示するためであったらすべては無意味です。

聖霊は全ての人の救いのために十字架に付けられた主イエスが天に帰られて、私たちに助け手として与えられるものです。聖霊の働きは全ての人のため、教会を造り上げるために用いられるものです。

ですから聖霊の働きは、教会の頭であるキリストを愛しキリストの栄光を現し、キリストの体である教会、隣り人に対する愛に基づいて行われます。そのためには、自分が行うことを隣り人に通じるように、分かって貰って、理解して貰う必要があります。大切なのは他の人に理解して貰うことで、正しければ良いということではありません。他の人の理解を得るための働きが必要になります。

2、異言の条件

そのためには、現在コリント教会で行われていることを具体的にどうすればよいのでしょうか。コリント教会が重要視している異言を語る者について条件を指示します。一つ目の条件は二人か多くて三人が語るという人数制限です。そして二つ目の条件はその二人か三人が順番に語る順番性です。

これはなぜかと言いますと、23節にあった様に、皆が異言を語っているところへ未信者が入って来たら、気が変になっていると思って躓くからです。また順番に一人ずつ語らないと、他の人が聞き取ることが出来なくなるからです。

パウロがこの様な指示を出すということは、コリント教会では恐らく、皆が一斉に異言で語っていたようです。そしてコリント教会ではそれを熱狂的で霊的だと思っていたようですが、それでは秩序も何もあったものではありません。

三つ目の条件は一人は異言の解き明かしをすることです。解き明かしをしないと他の人には内容が、「分からないよう」なので、教会を造り上げることにならないからです。解き明かす一人は異言を語る人の一人と考えられます。異言を語る者は、13節にあった様に、解き明かしができることを期待されます。

ここで異言が聖霊による本物であることを確認するにはどうしたら良いかを考えたいと思います。お断りをしておくと、これはキリスト教会で一般に行われていることではなくて、確認するにはどうしたら良いかというあくまで個人的な考えですのでご了解ください。

まず異言を語る人が自分で異言を解き明かすことが出来るなら、異言を解き明かせる他の人に聞かせて、本人の解き明かしと他の人の解き明かしを別々に聞いて、その内容が一致すれば本物ということになります。

また異言を語る本人が解き明かしを出来ない場合には、異言を解き明かす人二人を用意して、事前にこの三人が意思疎通を出来ない様にしておいて、二人の異言の解き明かしをそれぞれ別々に聞けばこの三人が本物であるかどうかを確認出来きます。

二人の解き明かしが全く同じであればこの三人は本物の異言と解き明かしです。しかしもしこの二人に解き明かしに食い違いがあれば、三人の内、少なくとも一人は本物ではありません。これは異言を録音しておいても出来るはずです。

しかしこのようなことを言うと反論もあるかも知れません。マタイ4:7に「あなたの神である主を試してはならない」とあるではないかと。しかしこれは神を試すことではなくて、異言が本物であることを確認するものです。しかしさらに霊の働きはその様な人間的な方法では確認出来ないものであると言われればそうなのかも知れません。

さらにその様なことを言っていると、大地真央さんにそもそも「そこに愛はあるんか」と言われてしまいそうです。宗教において科学的な証明は難しいことです。四重の福音の新生や聖化はホーリネス教団独自のものではなくて、聖書に書かれているキリスト教会共通のものです。

しかし洗礼を受けて永遠の命を受けるクリスチャンが永遠の命を得ることを証明することは難しいものです。洗礼を受ける前と後で、何か永遠の命を受けたことを示すDNAの変化があるかと言えば、恐らくないからです。聖化、きよめの経験をする者が、きよめられて何か血液の成分等に変化があるかと言えば恐らくそれもないからです。信仰によって受けとめることなのでしょうか。

異言の四つ目の条件は、解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分と神に対して語ることです。解き明かす者がいなければ、いくら良いことを語っていても他の人には分からないので黙っているべきです。

いくら素晴らしい内容の話を語っても、例えばフランス語では恐らく茂原教会では誰も分かりませんので、通訳がいなければ黙っていて頂くことになります。自分と神に対して語りなさいとは、教会ではなくて、自宅で語りなさいということです。

3、預言の条件

れでは預言の条件はどの様なものでしょうか。一つ目の条件は、預言する者も、二人か三人が語る人数制限があります。この当時の集会の形式は割と自由であったようです。ルカ4:16~にも、主イエスが安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになったら預言者イザヤの巻物が手渡されたとあります。

二つ目の条件は、他の者はそれ、預言者を検討します。ここの他の者は教会の人、全員を指しています。預言の内容を全ての教会の人が検討することは難しいものです。しかし預言者が本物であるか偽預言者であるかの検討は出来ることでしょう。

簡単な検討基準は、ガラテヤ5:22にある霊の結ぶ実のリストを見ることです。愛、喜び、平和と続く9つの霊の実が預言にあるなら本物です。逆に5:19の肉の行いのリストの敵意、争い、嫉妬、怒り等があれば預言は偽物です。

三つ目の条件は、座っている他の人が啓示を受けたら、先の人は黙ることです。例え私たちが分かる言葉で話されても二人以上の人が同時にしゃべったら、私たちは聖徳太子ではないので、何を言っているのか分からなくなってしまいます。

教会を造り上げるために聖霊がその様なことをされるはずがありません。次の人が啓示を受けたら先の人が預言を終える時が来た合図です。四つ目の条件は、三つ目の条件の説明も含みます。まずは後半の「一人一人が皆、預言できるようにしなさい」です。

これはそこにいる人が全員預言するということではありません。預言する者の二人か三人が、一人ずつ順番に預言できるようにしなさいという意味です。新改訳は「だれでも一人ずつ預言することができるのです」と訳しています。それは「皆が学び、皆が勧めを受けるように」です。預言する者は自分は預言する者だから他の預言は聞かなくて良いというのではなくて、預言する者も他の人の語る預言を聞いて、学び、勧めを受ける必要があります。

4、平和の神

パウロの手紙をここまで読んでいたコリント教会は、どの様に思ったでしょうか。コリント教会はきっとパウロは霊の働きのことを余り分かっていないと思ったと、パウロは考えたと思います。コリント教会は自分たちは霊の人であって、霊が激しく降ると異言も預言も同時に複数の人たちが語り始めて人間の力では止めることなど出来ない。それが霊の働きであると。

その様なコリント教会の反応を想定してパウロは続けます。預言者に働きかける霊は、預言者に服従するものです。コリント教会が考える様な、丸で何かに取り付かれた様に、人間の力で止められない様な異言や預言は聖霊の働きによるものではありません。

聖霊の働きかけは、預言者の理性に服従するものです。逆に言えば、異言や預言を語る者が理性的にコントロール出来ているかどうかで聖霊による働きかどうかを見分けることが出来ます。異言や預言を語る者が取り乱したりして集会の秩序を乱すなら、それは聖霊によるものではありません。

なぜなら神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。これは大切な御言です。現代でも聖霊の働きを強調し過ぎると、何でも聖霊の働きだからと言って無秩序や非常識が大手を振ってまかり通ってしまいます。

パウロは霊の働きによる異言を禁じようとしたのではありません。本物の霊の働きの中に入り込んで来る、人の思いによる本物ではない異言もどき、預言もどきを防ごうとしていました。

1:22にギリシャ人は知恵を探すとありましたが、その様な理知的なギリシャ人が異言を重要視するのは不思議な感じもします。コリントの近くには厳しい教育の代名詞とも言えるスパルタ教育のスパルタがあります。

その様な厳しい教育の反作用として超自然的なものを求める思いが出て来たのでしょうか。またコリントは交通の要衝として発展したことで風紀が乱れて偶像礼拝が盛んになったことなども影響しているのでしょう。人間は私を含めて誰でも超自然的なものに対する興味は多かれ少なかれあるものです。

しかし平和の神は、愛と、御言を語る預言の賜物を熱心に求めなさいと私たちに勧められます。

それが教会を造り上げて平和を実現する道です。神が聖霊を遣わせて私たちに求める愛と預言によって神にある平和を求めて行きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。コリント教会は異言等に多くの関心を持っていました。私たちは誰でも超自然的なものに興味を持ちます。しかしあなたは私たちに与える霊の賜物は教会を造り上げるために用いなさいと言われます。

恵みによって救われる私たちが、あなたの御言に従って、愛と御言を語る預言の賜物を熱心に求めて、平和の神にある真の平和を求めて行けますようにお導きください。

主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。