すべてを適切に秩序正しく

2021年2月7日
コリントの信徒への手紙一14章33b~40節

主の御名を賛美します。オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が今度は女性蔑視の発言をして発言の撤回を余儀なくされました。森会長は昔から失言の多い方ですが、年齢による判断力の衰えも見えて、少し哀れな感じもします。

また言葉の使い方には気を付ける必要性を改めて教えられます。勿論、根本的には考え方の問題ではありますが。今日の聖書個所は正しく読まないと女性差別ともなりかねない内容ですので、正しく聴かせて頂きましょう。

1、教会で女性が語ること

キリスト教会には色々な教団教派がありまして、それぞれの考え方や伝統によって女性は教職者、牧師にはなれない団体があります。カトリックでは女性は神父にはなれません。今日の聖書個所はその考え方に影響を与えた個所の一つです。

確かに女性が教会で語ることが出来なければ、教会で語る牧師や神父にはなれないでしょう。しかし女性が教会で本当に語ってはならないのであれば、私たちのホーリネス教団にはなぜ女性の牧師がいるのでしょうか。また礼拝の司会者は女性でも良いのでしょうか。

それらは人手が足りなかったためにやむを得なかったのでしょうか。その様なことではありません。それぞれの団体にはそれぞれの考え方や伝統がありますので、どちらが正しい正しくないではなくて、お互いの考えの違いを尊重しつつ御言を聴かせて頂きたいと思います。

34節は、「女は教会では黙っていなさい。女には語ることが許されていません」。35b節では、「女が教会で語ったりすることは、恥ずべきことです」と言います。これらの御言はどの様に受け止める必要があるのでしょうか。

聖書を読む時に私たちが気を付けることは、聖書からある1行か2行だけの文章を持って来て、その文章を前後の関係から切り離して拡大解釈をしないことです。その様なことをするとその文章の本来の意味が分からなくなってしまうからです。

マスコミでの記者会見等でも一言だけを切り取ってしまうと本来の意味とは少し違う意味に受け取られることがあります。ある文章の内容を理解するためには、その文章の前後の関係を良く見て、その文章がどの様な文脈の中で書かれているかを正しく理解することです。

34、35節では女性が教会で語ることが禁じられています。ところでこの文章が書かれている前と後でも語ることを話していますが、それは何を語ることを話しているのでしょうか。先週の26~33a節では、異言と、啓示である預言を語ることです。そして後の39節でも、預言と異言を語ることです。

そうであるならば、34、35節で女性が教会で禁じられている語ることとは、異言と、啓示としての預言を語ることと考えるのが自然です。ここで女性は教会では何も語ってはならないと突然言い出していると考えることの方が不自然です。

パウロはガラテヤ3:28では「男も女もありません」と言っていて、この時代には珍しい程の男女平等の考えです。ローマ16:3では女性のプリスカを新改訳では同労者と呼んでいます。しかしそうすると11:5の御言と矛盾するのではないかと思われるかも知れません。

11:5では裏を返せば、女は頭にかぶり物を着ければ祈りや預言をしても良いと言っているように取れます。確かにそうですが、パウロが言っていることは同じです。今日の説教題にある様に、すべてを適切に、秩序正しく行いなさいということです。

コリント教会は熱狂的であることが霊的で良いことだと思っていたようです。女性が頭にかぶり物を着けずに、神ではなくて男、人間の栄光を現して、服装も乱して酔いしれていました。それが霊的であると勘違いしていました。コリント教会では、女性が頭にかぶり物を着けずに祈りや預言をする程に、礼拝の秩序を乱していました。

2、男女の違い

ここの御言には、コリント教会特有の問題、時代背景と、ある種の女性の性質という二つの問題を含んでいます。コリント教会に特有の問題、時代背景はこの時代に女性は余り教育を受ける機会が無かったことです。

その様な中で、熱狂的に人間の思いで自由に語ることと、霊の働きによって語ることの違いが分からない女性が、女性の置かれている不遇な環境への反動や反発もあってか、勝手なことを語って秩序を乱していたようです。

もう一つの女性の性質については、この個所と同じような内容がⅠテモテ2:11~14にあります。ここもエペソ教会の特有の問題と言えばそうかも知れませんが、男女のある種の違いがⅠテモテ2:14に書かれています。

創世記3:6で、エバは蛇に騙されて、善悪の知識の実を食べてしまいました。パウロはアダムはアダムと書きますが、エバを女と表現します。確かに創世記に女と書かれていますが、それは女性を象徴しています。

これは女は騙されやすくて男より劣っているということではなくて、男女の性質の一般的な違いを表しています。男性はどちらかというと論理的な理屈っぽいところがあります。女性はその場の雰囲気を読んで大切にするところがあります。

これはどちらが優れているということではなくて、どちらも必要な性質として神がそれぞれに役割として与えられたものです。ただその場の雰囲気を大切にして、その場の影響を受け易い女性は、異言や、その当時にはあった啓示を語る預言を教会で語ることは相応しくないので、しないようにということです。

怪しげな占い師等を見かけることがありますが、男性もいますが、女性の方が多い様な気がします。女性が「何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい」というのは、この当時の女性は教育の機会が少なかったので、教会でいきなり発言をして教会の秩序を乱すのでなくて、結婚している女性はまず夫に尋ねて、未婚の女性は親や兄に尋ねなさいということです。

またコリント教会は霊の働きを重要視していますので、霊の働きであると思ったら何でもかんでも全てを語る必要があると思っていたようです。しかしパウロは、「神の言葉はあなたがたであるコリント教会から出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」と問います。

勿論、そのようなことはありません。むしろ律法と呼ばれる旧約聖書は、聖なる者たちのすべての教会である他の教会では、女性は異言や、啓示である預言を教会で語るのではなくて、服従して、従うようにしなさいと勧めます。

3、勧め

さらに「自分は預言者か霊の人であると思っている者は、私があなたがたに書いてきたことは主の命令であると認めなさい」と勧めます。パウロはここで預言と異言のことを話しているので、霊の人とは、異言を語る異言者のことです。ただ異言者と書くと直接的過ぎると思ってか霊の人と遠回しの言い方をします。

「自分は・・・と思っている者」というのは、自分ではそのように思っているだけの人です。逆に言うと、パウロはコリント教会の自称預言者や異言者は本物の霊の働きによるものとは思ってはいません。なぜなら神は平和の神ですから、本物の霊の働きなら教会の秩序を乱すはずがないからです。

パウロが書いてきたことは、使徒として主の命令であると確信を与えられたものですので、主の命令と認めなさい、そうでないとその人も認められないと勧めます。果たしてコリント教会はパウロのこの勧めを主の命令と認めて受け入れたのでしょうか。

パウロはこの手紙の後に、次に続くコリントの信徒への手紙二を書きました。一と二の手紙の内容を比べてみると、分派、不品行、偶像礼拝等のこの手紙と同じような問題が書かれています。確かに人は急に変わるものではないかも知れません。

しかし二の手紙には預言と異言による問題は書かれていません。異言と、啓示を語る預言の問題はパウロの勧めに本当に従うならば収まるものです。また先週お話したように、本物であるかを検証すれば本物でないものは廃れることになります。

パウロは14章で4回目の「きょうだいたち」、しかも今回は「私の」を付けて「私のきょうだいたち」と親しく呼びかけます。勿論、私の兄弟姉妹たちという意味です。そして、こういうわけですから、「預言することを熱心に求めなさい」と勧めます。

この預言は1節にもあったように、聖書の御言を語る預言で全ての人に対する勧めです。女性が教会で語ることを禁じられているのは、26~30節に書かれている啓示、聖書の御言を解き明かすことでない預言と考えられます。私もこれまで女性の説教を多く聞いて来ました。

一人一人違いますので、女性、男性で一纏めにして比べるのは難しいかも知れません。

しかし女性による説教は男性とはまた違った視点から語られますのでとても大切な働きだと思います。預言は熱心に求めることを勧められる一方で、異言は語ることを禁じてはならないものです。

異言が本当に霊の働きによるものであれば、勿論禁じるべきものではありません。しかし預言は熱心に求めることを積極的に勧める一方で、異言を求めることを勧めていないということは、やはりパウロはコリント教会の異言を霊によるものとは考えていなかったと思われます。

4、すべてを適切に秩序正しく

11章から続く礼拝の内容の最後を「ただすべてを適切に、秩序正しく行いなさい」と纏めます。すべてというのは、礼拝のすべてです。具体的には、11章のかぶり物、主の晩餐、異言、預言等です。「適切に」と訳されている言葉は、「礼儀正しく」という意味もあります。

礼拝のすべてを適切に、秩序正しく行うとは、自分が行うことを自分のためにするのではなくて、教会を造り上げるために行うことです。それは12:12からのところに書かれていたように教会が一つの体として生きることです。

例えば口が自分はとにかく沢山飲み食いしたいからと言って、良く噛まないで暴飲暴食をすればお腹が痛くなってしまいます。私たちは自分がしたいことだけを好き勝手にするのではありません。口が食べる時には口のことだけではなくて、お腹のことや体全体のことを考える必要があります。

すべてを適切に秩序正しく行うとは神を愛して、隣り人を愛して行うことです。口が体全体のことを考えて節制して飲み食いするなら、体全体の調子が良くなって全身が大きな喜びに満たされます。

すべてを適切に秩序正しく行っているなら、神との関係、また隣り人とは良い関係になってスムーズになります。逆に言えば、隣り人との関係が何かスムーズでなくなって来たら黄色信号です。そのようにならないためにはどうすれば良いのでしょうか。

私たちが正しい道を歩むために必要な手続きは主イエスが十字架で全て成し遂げてくださいました。私たちはそのことを感謝してこの日曜日の礼拝を適切に秩序正しく行うことです。そして日曜日だけではなくて日々、自分で礼拝を行うことです。

礼拝と言っても大袈裟なことではなくて、聖書の御言を読んでお祈りをすることです。そして聖霊の導きを求めて素直に従うことです。神はご自分を求める者に応えてくださる方ですので信頼して歩ませて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。コリント教会員は勿論、クリスチャンですが、いつの間にか、自分を預言者や霊の人と思って御言から少しずつずれていました。このようなことは誰にでも起こり得ることです。

私たちが日々、私たちを救ってくださる主イエスの十字架を覚えて、あなたを礼拝し続け、すべてを適切に、秩序正しく行って行けるようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。