「造り上げるための権威」 

2021年10月10日説教 
コリントの信徒への手紙二 10章1~11節

        

主の御名を賛美します。日本の首相が交代しました。首相は日本の最高権威、権力です。権威というとその道の専門家という意味でも使われて、あの人は物理学の権威という言い方もされます。私たちの身近なところにも色々な権威が存在します。それらの権威はどのようにあるべきなのか御言を聴かせていただきましょう。

1、パウロの配慮

今日の聖書個所は先週迄のところと感じが大きく変わりました。先週迄の1~9章は7:9にありましたように、この手紙の前の手紙である「涙の手紙」や先に遣わされたテトスの働きによって、悲しんで悔い改めた大多数のコリント教会員に宛てた内容ですので、励ます感じです。

しかし今日からの10章から最後の13章迄はパウロが使徒であることを否定する、11:13の偽使徒やそれに同調する人たちに対する内容ですので厳しい内容になっています。偽使徒たちはパウロのことを、「コリント教会員の間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる」と言っています。

それは、パウロは人と面と向かっている時は何も言えない小心者のくせに、離れていると強気になって吠える、「負け犬の遠吠え」をするような奴だということです。その様に思われている、この私パウロがというのは皮肉たっぷりの書き方です。

同じ様なことは10節では別の表現で、「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者がいると言います。パウロはなぜこの様な言われ方をするのでしょうか。一つには、ギリシャ人は知恵を探しますが、パウロは手紙一の2:1で、「優れた言葉や知恵を用いない」と言っています。それでそのような印象を与えたのかも知れません。

それと、コリント教会に面と向かってはっきりと厳しいこと言うことは相手に恥をかかせるのでパウロは控えますが、主にあって言うべきことは伝える必要があるので、手紙では伝えたのでしょう。それはパウロの心遣いです。私たちも直接会ってとか電話では伝え難いことを手紙等の文章では伝えることはあるものです。

キリストの優しさと公正さをもって願うとは、自分自身の願いではなくて、キリストの霊である聖霊の満たしの中で御心に適う願いとして伝えることです。キリストの優しさと公正さは、福音書の中で姦淫の女等の罪人と呼ばれる人を裁くのが目的ではなくて悔い改めへと導くものです。私たちもいつも、キリストの優しさと公正さをもって願う者でありたいものです。

2、強気にならずに済むように

願いはどういうことかと言う前に、まずパウロが願う相手は、パウロたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちです。肉に従って歩むとは、キリストの優しさと公正さとは正反対に、生まれながらの罪深い貪欲に従って歩むことで、偽使徒たちの歩みです。

人が他人をどのような存在かと考える時に、一つの傾向として自分と同じ様な存在と考えることがあります。善意溢れる人は他の人も善意に溢れる人と考えて、泥棒は他の人を見ると泥棒と思うようです。偽使徒はパウロたちのことを、どうせあいつらも自分たちと同じように、貪欲に肉に従って歩んでいると見なしていたのでしょう。誠実な人が存在することを考えられなかったのでしょう。

世の中には色々なタイプの人がいます。その人たちに対してどのように対応したら良いのかというのは考えさせられることです。箴言26:4は、「愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな。あなたがその人に似た者とならないために。」と言い、次の5節は、「愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをせよ。その人が自分を知恵ある者と思い込ませないために。」と言います。

4節は、「無知に合わせて受け答えをするな」と言い、5節は、「無知に合わせて受け答えをせよ」と言い、一見、矛盾するように聞こえます。しかしそれは、愚かな者に自分も同じレベルに下がって受け答えをするべきではありませんが、状況から必要な時には受け答えをせよ、ということです。

その必要は自分の考えで判断するのではなく、聖霊の導きを求めます。今回はパウロは勇敢に振る舞うようにと導かれました。11節でも同じことを繰り返して強調します。今回は本気で対応します。ただ、そうは確信していますが、出来ることなら、パウロがコリントに行くときには、強気にならずに、勇敢に振る舞わずに済むようにと願っています。

それはそうです。誰でも面と向かって相手に厳しいことを言って気まずい思いをすることを望む人はいません。そのために今パウロはここから13章迄を書いていて、パウロたちがコリントに着くまでに良く読んで考えて欲しいと願っています。それがパウロのキリストの優しさと公正さとももった願いです。

3、神から与えられた力

パウロたちを含めて現代のクリスチャンも肉において歩んでいます。肉において歩むとは、肉体を持った者として、人間の弱さを持っていることです。しかし肉に従って戦っているわけではないというのは、罪深い貪欲に従って戦っているわけではありません。

私たちの戦いの武器は肉のもの、この世の優れた言葉、知恵、地位、資産等ではありません。そうではなくて神から与えられた力です。神の力とは具体的にはエフェソ6:13~17にある神の武具です。それによって砦を破壊することさえできます。

砦を新改訳は要塞と訳して、それはこの世の戦いでは打ち破ることがとても難しいものですが、私たちには神から与えられた力で、その様な砦をも破壊することができます。

さまざまな議論を破るのは大変なことですが、私たちには真理の帯があります。神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち砕くには正義の胸当てがあります。あらゆる思惑をとりこにしてキリストに服従させるには平和の福音の履物です。そしてこれらすべてと共に信仰の盾を手に取ります。

これで守りは完璧です。そして不従順な者をすべて罰するのは霊の剣である神の言葉です。守りも攻めも神の力、武具が用意されていますので、何も心配する必要はありません。

これらはパウロたちだけに与えられるものではありません。神に従う全てのクリスチャンに与えられるものですから、何も心配せずに信頼して歩むことが出来ます。パウロの敵対者たちはこれらの神の武器に肉の武器で対抗するつもりでいるのでしょうか。そうではありません。

4、キリストのもの

パウロは、目の前の事柄を見なさいと言い、続けて、「自分はキリストのものだと確信している人がいるなら」と言います。人は他人をどのような存在かと考える時に、もう一つの傾向として、他の人が自分と同じ様なことをしていても、自分には甘く優しく、他の人には厳しい目で見ます。「自分に優しく他人に厳しく」です。

その結果、自分の考えと行うことは全て正しいけれど、自分と違う人は皆、間違っていると考えます。パウロの敵対者たちは、自分たちこそキリストのもの、いや自分たちだけがキリストのものと確信しています。これが問題行動を起こす人たちの特徴です。

再来週の24日の午後に連合壮年会の大会で異端・カルトの問題が取り上げられます。そのチラシにも書かれていますが、カルトは自分たちがカルトであるとは思っていません。自分たちこそが正しく、正しいのは自分たちだけだと考えています。そして自分たちと違う考えの者はサタンによるものだと主張します。

他人をサタン呼ばわりする本人がサタンに捕らわれていることには気付かないようです。同じクリスチャンでも人それぞれで考えが違います。クリスチャンが同じ考えをする必要のあることは聖書に明確に書かれていることだけです。

聖書に明確に書かれていないことは、どのように考えても人それぞれの自由です。そしてお互いのその違いを受け入れ合う必要があります。手紙一の8章に書かれていましたように、偶像に献げた肉も、食べても食べなくても人それぞれの考えでどちらでも良いものです。

パウロは敵対者に対して、自分だけが正しいと考えるのではなくて、自分と同じくパウロたちもキリストのものであることを、もう一度よく考えてみなさい、と勧めます。ここでキリストのものというのは単にキリストのものであるクリスチャンであるというだけではなく、キリストに立てられたものである使徒という意味が含まれています。

5、造り上げるための権威

そしてパウロが使徒として立てられたのは、あなたがたであるパウロの敵対者たちを打ち倒すためではありません。敵対者を打ち倒すのはこの世の肉の戦いです。しかしパウロたちを含めて、クリスチャンの戦いは神の武具による霊の戦いです。霊の戦いの目的は不従順な者を悔い改めへと導いて、造り上げることです。

手紙一の14:3~5でも、異言と預言の目的は人と教会を造り上げることと3回繰り返し強調していました。パウロは使徒として、神から砦さえ破壊する力を与えられていて、4~6節のことを実行する権威が与えられています。それもすべて人と教会を造り上げるためです。

この権威はパウロ自身の権威ではなくて、神の力により神の教会を造り上げるための神の権威です。その権威を主がパウロたちに授けています。パウロに主が授けられた権威をパウロの敵対者たちが軽んじることは主を軽んじることです。主ご自身が報いを与えることになります。

パウロ自身も主が授けられた権威は、自分のものではなくて主の権威ですから、いささか誇り過ぎても、それは自分を誇るのではなくて、主を誇ることですから恥にはなりません。私たちも自分自身を誇ってはなりませんが、主が授けてくださった権威については誇り過ぎても恥にはなりません。

主が授けてくださった権威とは、具体的にはどのようなものでしょうか。エフェソ6:14~17にある神が与えてくださる真理、正義、福音、信仰、救い、神の言葉の権威です。その権威によって、4~6節のことができます。しかしその目的は自分の敵を打ち倒して自分の栄光を現すためではありません。あくまでもそれらの権威は人と教会を造り上げるために授けられたものです。

主イエスは十字架に付けられて私たちの罪を赦し、主イエスを救い主と信じる者に、神の力、権威を授けてくださいます。感謝して救いに与かり、神の権威に与からせていただきましょう。そして聖霊の導きにより、神の権威を正しく、人と教会を造り上げるために用いる者とさせていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスの十字架による救いを信じる者を救われ、肉に従って歩むのではなく、神の力によって生きる者としてくださり有難うございます。この救いに全ての人を与からせてください。

そして救いに与かる者が神の権威を正しく用いて、人と教会を造り上げる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。