「弱いときにこそ強い」

2021年11月21日説教  
コリントの信徒への手紙二 11章32節~12章10節

        

主の御名を賛美します。以前に首相を務めた宮澤喜一さんと竹下登さんを比較して言われていたことは、宮澤さんは優秀なので自分一人で考えるので仲間が少ないが、竹下さんは皆に相談して協力するので竹下さんの方が力があって強いと聞きました。本当のことかどうかは知りませんが、自分が優秀だと思ってしまうとそのような罠があるのだということを考えさせられました。

1、楽園

パウロは使徒言行録9章で、ダマスコにクリスチャンを迫害するために向かう途中で、主イエスに出会ってクリスチャンになりました。そして逆に主イエスのことを宣べ伝え始めたために命を狙われました。しかしパウロは籠に乗って弟子たちに城壁伝いにつり降ろされて難を逃れました。

パウロにとって籠で逃れるのは苦難の始まりであり、また逃れるという自分の弱さを象徴する出来事で印象深かったことでしょう。パウロには誇らずにいられないことがあります。誇っても無益だということは知っていますが、主の幻と啓示とについて語ります。

幻はビジュアル的に見える啓示のことで、啓示は見えるものではないようです。パウロはキリストにある一人の人を知っています。その人は14年前に第三の天にまで引き上げられました。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです。3節では、2節と殆ど同じ言葉で繰り返しています。

このキリストにある一人の人というのは明らかにパウロ自身のことです。パウロが幻を見た記事は聖書に幾つか書かれていますが、14年前というのが聖書のどの記事のことを言っているのか、又は書かれていないことなのかは不明です。第三の天というのがどのようなことを意味しているのかについては色々な説があります。

一つの説として、第一の天を青空、第二の天を星のある天体、第三の天を神のおられる場所と考えられていました。第三の天は4節で楽園(パラダイス)と呼ばれます。パウロは第三の天に自分で行ったのではなくて、神によって引き上げられました。

パウロは11:33で、籠でつり降ろされて、この世の低い所へとつり降ろされて、ここでは天にまで引き上げられました。パウロはこのような対になる表現を良く使います。体のままか、体の外へ出てかはパウロ自身が知りませんので、私たちがあれこれと考えて詮索しても無意味なことです。

パウロは楽園で、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞きました。パウロは人が口にするのを許されない言葉を聞いたのはなぜでしょうか。パウロは先週の11:23からの苦難のリストにあるような壮絶な体験をしています。鞭打ちは40に一つ足りない回数に至る前に命を落とす人もいた程です。パウロのような苦難を受ける人には、天国が確実にあることの確信を与えて、苦難に耐えて、天国を待ち望む希望を与えるために、このような経験をさせたのだと思われます。このような記事が聖書にあると、同じようなことが現代でも起こることがあり得るのだろうかと考えさせられます。皆さんはどのように思われるでしょうか。

聖書に書かれているということは神がお望みになるなら起こり得ます。しかしパウロが体験して聖書に書かれていて、聖書を読めば皆が知り得ることを他の人が体験する必要があるでしょうか。パウロと同じような苦難を受ける人には、若しかすると体験することが有り得るかも知れません。

しかしパウロと同じような苦難の体験をしていない人が、神秘体験だけをしたという話を聞くことがありますが、それは眉唾物だと思います。なぜならそこに神の御業の必然性が無いからです。聖書はある記事を読む時には前後関係を良く読んで、なぜそのような記事があるのかを理解する必要があります。

私たちは人間の常識を超えた神秘的なものに惹かれ易い部分がありますが、聖書を正しく知ることによって、偽物に惑わされないようにする必要があります。

2、神秘体験

パウロは、「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、私自身については、弱さ以外は誇るつもりはありません」と言います。パウロは自分の中に二人の人格を見ていて、一人は神によって楽園に引き上げられた者で、もう一人は弱さを抱えた者です。

弱さを抱えた者としては、11:30にあったように、弱さを誇ります。楽園に引き上げられた者としても、結局は自分の力で楽園に上がったのではなくて、神に引き上げられたのですから神による恵みです。それにしても真実なので、誇っても愚か者にはなりませんが、誇るのはやめます。

パウロについて見たり、聞いたりする以上に、買いかぶる人がいるかもしれないからです。以前にある新興宗教で、座禅をしたまま数十センチのジャンプをすることで騒いでいました。楽園にまで引き上げられたという人が出てきたらきっと大騒ぎになるでしょう。

神秘的な体験を強調するとパウロが伝えようとしていた本来の福音ではなくて、パウロが神秘体験をした教祖として祭り上げられて、パウロの望まない方向に進んでしまう可能性があります。パウロは今回の幻と啓示以外にも多くの幻と啓示を受けています。

使徒言行録9章ではダマスコに迫害に行く途中で主イエスの啓示を受け、16:9ではトロアスでマケドニア人がマケドニア州に来て助けてくださいと懇願する幻を見、18:9ではコリントで主が幻で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」と言われる等あります。

3、棘

それで思い上がることのないようにと、パウロの体に一つの棘が与えられました。パウロのような忠実な使徒であっても、思い上がるという誘惑に陥る危険がありました。棘は思い上がらないように、パウロを打つために、サタンから送られた使いです。

思い上がらないように打つためであっても神が棘を人に与えることはありません。棘を与えるのは飽くまでもサタンです。神はサタンの行うことを許されて、思い上がることのないようにと用いられることはされますが棘は与えられません。この使いについて、離れ去らせてくださるようにと、パウロは三度主に願いました。

三度というのは、三回だけ祈ったということではないと思います。暫くの間に祈り続けていたのを一度としているのかも知れません。必死に祈っていたことだと思います。パウロに与えられた棘とはどういうものなのでしょうか。

ガラテヤ4:14では、「私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました」と言いますので、普通は蔑んだり、忌み嫌ったりするもののようです。

その後の4:15では、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも私に与えようとしたのです」と言いますので、目の病気と考えられます。しかしその他にもてんかん性の病気やマラリヤだったのではないかという説もあって、はっきりとしたことは分かりません。

人生は、「良いとこ取り」は出来ないのだと思わされます。11:23からのような苦難を受けるパウロには、楽園に引き上げられることを含む幻と啓示が与えられますが、同時に思い上がることのないように棘も与えられます。幻と啓示を含む神の恵みには漏れなく苦難と棘がセットで付いて来ます。

皆さんはどのような人生を望まれるでしょうか。私は自分の弱さを知っていて、苦難と棘は嫌なので幻と啓示等は全く要りませんが、恵みは頂きたいと思います。しかし恵みだけという訳には行きませんので、この配分は難しいものです。こればかりは自分で決めることは出来ません。神が一人一人に応じて全てをお決めになられます。

4、弱いときにこそ強い

パウロに与えられた棘が何であるかは具体的には分かりませんが、全ての人に大きい小さいは別として棘は与えられているのではないでしょうか。常にちくちくと痛んで気になるので出来ることなら抜きたくなるような棘です。棘の種類は人によって違うと思います。

しかし主イエスもマタイ16:24で、「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われました。パウロの言う棘は主イエスの言われる十字架と同じことです。そうは言っても、恵みも受けていますが、棘を離れ去るようにと願うパウロの気持ちは良く分かります。

ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。私たちは強さを誇ります。しかし強い時には自分の力により頼んで神に目を向けることも無く、神の介入される余地はありません。

しかし弱い時には、「困った時の神頼み」とばかりに、神により頼み、神の力が現れます。神の力が現れるのが恵みですから、その意味では弱さも恵みと言えるでしょう。「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

それゆえ、パウロは、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。ここで5つのことである、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりは並列に書かれていますので、それらの中にあってもと読めます。

しかし、パウロは11章からずっと弱さについて語っていますので、弱さの中にある具体的なことは、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあることとも読めます。普通は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあることは嫌なことです。

しかし人が弱さを覚える時にキリストの力が宿ります。ガラテヤ4:13でパウロは、「知ってのとおり、私が最初あなたがたに福音を告げ知らせたのは、私の肉体が弱っていたためでした」と言います。パウロの肉体に弱さがなければ第二次宣教旅行で、ガラテヤに行くつもりはありませんでした。

人が弱さを覚えるところに、キリストの強い力が宿り現れます。クリスチャンは人間的には弱いときにこそ神の力によって強くなります。そのためにキリストは十字架に付かれて、私たちに聖霊によって力を与えてくださいます。

9節では、「力は弱さの中で現れるので、弱さを誇りましょう」と言い、10節では、「弱さの中にあっても喜んでいます。弱いときにこそ強い」とどんどんと発展して行きます。人間の力と神の力は本当に反比例します。人間が弱さを認めないと神の力の出る幕が無くなってしまいます。

弱さを隠すために誇るのではなくて、安心して自分の弱さを認めて、キリストを信じて歩ませていただきましょう。私は、弱いときにこそ強いからです。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも、パウロに与えられたような棘があります。出来ることなら、棘などは一つも無く毎日を快適に過ごしたいものです。しかしあなたは、「私の恵みは十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われます。

私たちが自分の罪を悔い改め、弱さを認め、キリストの力によって、弱いときにこそ強い者として歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。