「あなたを求める神」 

2021年11月28日説教 
コリントの信徒への手紙二 12章11~18節

        

主の御名を賛美します。コロナウイルスの感染者が減少する中で、急にユーチューブによる礼拝だけになり驚かれたかも知れません。私の家族が濃厚接触者になる可能性もあったことや、その他の事情も考慮して役員会で適切な判断を行ったと思います。お祈りいただき有難うございました。私の家族は濃厚接触者にはなりませんでしたが、来週以降のことに付きましては色々な状況を見ながら後日に役員会で検討させていただきます。

1、使途としてのしるし

パウロはこれまでに本来なら語る必要の無いことまで語って愚か者になってしまったと言います。本当は、パウロのことを良く知っているコリント教会から推薦してもらうべきでした。しかしコリント教会はパウロのことを良く知っていながら推薦しないどころか逆に非難していました。

そこでパウロは自分のためではなく神に遣わされた使徒として、コリント教会を守るために愚か者にならざるを得ませんでした。その意味ではコリント教会がパウロを無理に愚か者にさせたとも言えます。

パウロは棘を与えられた弱さを持っている取るに足りない者かも知れません。しかしあの偉い使徒たちと言われる偽使徒に比べて、少しも引けは取らなかったどころではありません。偽使徒はパウロこそ偽者で使徒ではないと言いますが、パウロには使徒としてのしるし、証拠があります。

それは、忍耐を尽くしてコリント教会の間でなされた、しるしと不思議な業と奇跡です。使徒としてのしるしは、まず忍耐を尽くす中でなされるものです。しるしは強さの中でなされるのではなくて、弱さの中で、そして忍耐を尽くす中でなされるものです。しるしを経験するには忍耐を尽くす必要があります。

また「なされる」というのは受身形ですので、使途としてのしるしはパウロが自分の力で行うことではなくて、パウロの弱さの中で神が力を現わされて、なされたことです。神の力は弱さの中で現れます。神が力を現わされたパウロの使徒としてのしるしは、しるしと不思議な業と奇跡です。

これはしるしと不思議な業と奇跡という種類の違う3種類のものがあるという意味ではありません。神の力にはこの3つの側面があるということです。しるしは、これは明らかに神の力だと理解出来る理性的な面です。不思議な業は不思議だと感じる感情的な面です。

不思議は英語でwonderと言いますが、wonderが沢山でfullになるとwonderful、素晴らしいという意味ですと小林和夫先生が言っていました。奇跡は超自然的な力です。神の力にはこのようなしるしと不思議な業と奇跡の3つの側面があります。

ではコリント教会で神がなされた、パウロの使徒としてのしるしは具体的にどのようなことでしょうか。色々とありますが、その中で一番大きなことは、Ⅰコリント9:2でパウロが、「主にあるあなたがた、コリント教会員が、私が使徒であることの証印なのです」と言っている通りです。

人が神を信じて救われること以上に大きな神の御業はありません。コリント教会がパウロを使徒と認めないことは、パウロを通して救われたクリスチャンとしての自分たちの存在を否定するようなものです。コリント教会にはパウロという使徒が与えられて、救いの御業にも与かりました。

その点では他の諸教会と比べても劣らないことです。劣っている点は何でしょうか。パウロは、「私があなたがたに負担をかけなかったことだけではないですか」と問います。パウロはコリント教会の信仰がまだ成長していないので、経済的な負担等をかけると何か誤解を生んで躓きになるかも知れないと考えました。

しかし負担を負わないというのは、これは何においてもそうですが、一人前の人がすることではありません。やはり受益者負担で、サービスを受ける者が負担を負わないのは、ある意味で不正とも言えます。パウロは皮肉も込めて、「この不正についてはお赦し願いたい」と言います。

2、あなたを求める神

今、パウロはコリントに三度めの訪問をしようと準備しています。パウロは2節で第三の天、8節で三度主に願った、そして今回の三度めの訪問とユダヤの完全数である3を三回使って強調しています。今回の三度めの訪問を完全なる訪問として、コリント教会を仕上げたいという決意が込められています。

パウロのコリントへの一度目の訪問は第二次宣教旅行で、その時にコリント教会が立てられました。二度目は2:1の悲しみの訪問で短期間でしたので、今回は入念な準備をしています。しかし今回もコリント教会に負担はかけません。

パウロは言います。「私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです」。パウロが求めているのはコリント教会による経済的な負担等ではなくて、あなたがたの存在そのものです。この言葉は直接的にはパウロがコリント教会へ宛てたものですが、神がすべての人に宛てた言葉でもあります。

私が求めているのはあなたがた自身であって、あなたが欲しいということです。この神の言葉に、皆さんはどのように答えるでしょうか。説教の後の応答のお祈りの時にぜひお答えください。この言葉はとてもインパクトのある言葉ですので、色々なところで用いられます。

「あなたが欲しい」という言葉を聞いて何を思い浮かべるかは、年代等によって変わるかも知れません。ぴんから兄弟の歌を思い浮かべる人もいるかも知れませんし、私は40年位前の歌手の高橋真梨子さんの「for you」という曲の中の歌詞が思い浮かびます。

またある人は米軍が軍人を募集するポスターに「I want you」と書いてある物を思い浮かべるかも知れません。自衛隊も真似してか同じように「I want you」と書いています。

3、子のために

子は親のために財産を蓄える必要はありません。人の親は大抵は、せめて経済的には子どもの世話にはならないようにと一応の努力はするものです。勿論、それが必ずしも思い通りに上手く行くかどうかは分かりませんが。そして親は子のために何とかと蓄えようとするものです。

そこでパウロはコリント教会の霊的な親として、コリント教会の魂のために大いに喜んで財を費やし、また、私自身をさえ使い尽くしましょう、と言います。パウロがこのようなことを言う背景には、恐らくパウロの両親もパウロを育てるために惜しみなく喜んで財を費やして来たのだと思われます。

また何よりも、私たちの救い主キリストはクリスマスにこの世に来られて、十字架でご自分自身を使い尽くされました。パウロは11:23にありました、キリストに仕える者として、キリストがご自身を使い尽くされたのと同じように、私自身を使い尽くしましょう、と言います。

しかしパウロが自分自身を使い尽くすことによって、その応答としてコリント教会に愛されるのでしょうか。物事はそれ程には簡単に順調に行く訳ではありません。キリストでさえ、この世の人々を愛して、ご自身を十字架で使い尽くされましたが、それですべての人々に愛された訳ではありません。

パウロもキリストに仕える者として同じように、「あなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか」と問います。これはすべての親が同じような思いを抱かれることがあるのではないでしょうか。

世の親も、子のために蓄えて、大いに喜んで財を費やし、自分自身をさえ使い尽くし、愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか、と問いたくなるような時があるのではないでしょうか。しかし愛を注ぎ続けるなら必ず神が成長させてくださり、親の愛に気付く時が来ますので信じて希望を持ち続けたいものです。

4、誤解を解く

パウロはコリント教会に重荷を負わせなかったのに、パウロは悪賢くて、コリント教会からだましとったということになっています。これは偽使徒が、「パウロは話し振りは素人で(11:6)、推薦状もないから報酬を受け取れない、しかし9章にありましたエルサレムの信徒への献金と言いながら、自分の懐に入れて、コリント教会からだまし取った」と言い触らしていたようです。

いつの時代にも嘘を言い触らす者はいて混乱が起こることがあります。主にある働きについての嘘をそのままにしておくと誤解を生みますので、パウロは真実を明らかにするために問います。「そちらに遣わした人たちの誰によって、あなたがたから貪り取ったでしょうか」。嘘をそのまま鵜呑みにするのではなくて、一つ一つの事実を確認すれば真実は分かるはずです。まずパウロ自身は献金の件には直接的には関わっていません。8:6で、パウロはテトスをコリントに行くように勧め、また献金を始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。

そしてパウロはやはりお金に関わる件ですので、テトス一人だけではなく、あの兄弟と呼ばれる、8:18では、「福音の働きによって、すべての教会で称賛されている」人を同行させました。その理由は、8:20で、「このような手順を踏んだのは、私たちが携わっている豊かな寄付について、人にとやかく言われないようにするためです」。

そのテトスがあなたがたから貪り取るようなことをしたでしょうか、と問います。有り得ないことです。そして「私たちは同じ霊、聖霊をもって、同じ足並みで歩んだではありませんか」と問います。註解書等を見ますと、この「私たち」はテトスたちとパウロたちを指すとありますが、この「私たち」は、コリント教会も含むものだと思います。

同じ霊である一つの聖霊をもつならば、そこに同じキリストの一つの体としての一致が生まれます。キリストの一つの体としての一致というのは、すべての人が自動的に同じ考え、同じ足並みになることではありません。

Ⅰコリント12章に、「一つの体、多くの部分」とありましたように、体には目、耳、鼻、口、手、足等の多くの部分がありますので、それぞれの部分によって、感じ方、思いは違います。しかし一つの霊をもって、それぞれがお互いに思い遣りをもって、いたわり合うところに一致が生まれます。

足並みも自動的に揃うのではなくて、同じ霊をもっていたわり合う中で、足並みを揃えて歩もうという思いを与えられて出来ることです。それはどのようにしたら出来るのでしょうか。それは私たち自身を求めてクリスマスにこの世に来られたキリストに自分を献げて、キリストを頭とする体の部分になることです。

キリストは私たち自身を求めてクリスマスにこの世に来られて、私たちを愛してご自身を使い尽くされました。その愛に応えて私たち自身を献げて同じ霊をいただいて、みな同じ足並みで歩む者とさせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロがコリント教会に言った、「私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです」という言葉は、神が私たちに語られている言葉です。

私たちを聖霊で満たし、クリスマスにこの世に来られて十字架でご自身を使い尽くされたキリストの愛に答える者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。