「造り上げるため」

2021年12月5日説教 
コリントの信徒への手紙二 12章19~21節

        

主の御名を賛美します。私は登山という程の本格的なものではありませんが、ハイキング程度の山歩きが好きです。山歩きをするときに一番大切なことは、道が分かれる岐路に差し掛かった時に、案内板に書かれている、どこどこ方面という方向を正しく読み取って、自分が目指す目的地に向かうことです。案内板を読み間違えても安全なら良いですが、とんでもない方向に進んでしまって、ときには大変な目に遭うこともありますので要注意です。

1、造り上げるため

パウロはコリント教会へのこの手紙の前に、2:4で涙の手紙と呼ばれる厳しい内容の手紙を書きました。その手紙をテトスが持って行って、大多数のコリント教会員は悔い改めました。1~9章までは、悔い改めたコリント教会員への励ましの内容です。

しかし10章からは偽使徒の影響を受けたパウロに反対する人たちへ反論する内容です。ここには若しかすると、涙の手紙で一度は悔い改めたけれど、また偽使徒によって惑わされた人も含まれているのかも知れません。コリント教会は今そのような状況にあるという情報がパウロの元に届いたのかも知れません。

そこでパウロたちは無報酬で福音を宣べ伝えたこと、キリストに仕える者としてキリストと同じような苦難を受けたこと、主から与えられた幻と啓示、使途としてのしるし等を語って来ました。パウロに反対する人たちは、パウロたちがまたもや弁明をしていると思うことでしょう。

弁明を新改訳は「自己弁護」と訳しています。弁明、自己弁護は他の人に自分を良く思われようとして行うことです。私たちは誰でも他の人に良く思われようとする思いがあって、取り合えず、弁明をしがちです。しかしパウロは人に自分を良く思われようとは考えていません。

ただ神の前で、キリストにあって語っています。「神の前で、キリストにあって語る」とはどういうことでしょうか。私たちは人に対して弁明するときには、無意識的にも話を自分に有利なように語ってしまうものです。しかし全知全能のすべてをご存じである神の前ではそのような弁明は通じません。

神の前では、すべての真実をありのままに語ります。また「キリストにあって語る」というのは、自分が罪人であることや弱さを認めて、キリストの十字架によって罪を赦された者として語ることです。自分の罪は十字架で赦されるけれど、あの人の罪だけは絶対に赦さないということは有り得ません。またそれはキリストに仕える者として、キリストの教えに忠実に従って語ることです。

その理由をパウロは、「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです」と言います。パウロにとっては、愛する霊的な子どもであるコリント教会を造り上げるためだけを考えて、人に自分はどう思われようが、神の前で、キリストにあって真実を語ります。

パウロは10:8でも、自分に授けられた使徒の権威は、コリント教会を打ち倒すためではなく、造り上げるためと言っていました。親の子に対する願いは、例え自分はどうなってでも子を造り上げて、成長させることです。人を造り上げるために生きるのが、キリストに仕える者の生き方です。またそれが本人にとっても神が祝福される一番幸せな生き方です。

2、心配事

しかしパウロは心配していることがあります。それはパウロがコリントに行ってみると、コリント教会員がパウロの期待していたような人たちではなく、パウロのほうも、コリント教会員の期待どおりの者ではない、ということになることです。

コリント教会はパウロにどのような期待を持っているのでしょうか。10:10にパウロの反対者の意見として、「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」とあります。するとコリント教会は、重々しく力強く、話の面白い人を期待しているようです。

Ⅰコリント2:2でパウロは、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言います。福音の内容自体よりも他のことが優先されてしまうと、それは偶像になってしまいますので、パウロは偶像礼拝を避けていました。

教会にはキリスト教のことを全く知らない方が訪ねて来られたり電話をして来ます。それは有難いことです。しかし時々、あなたが牧師ですかと確認した後に、あなたは悪霊を追い出すことが出来ますかとか、霊感は強いですか、と質問されることがあります。

私が霊能力者ですべてを思い通りに支配出来るようなことを期待されているようです。お祈りはさせていただきますが、神の御心がなされるのであって、私が支配するのではありませんと言うと、期待外れなのか、がっかりとされてしまう方もいます。テレビやマスコミの影響か牧師にそのようなことを期待されている人に、どのように対応したら良いのかと考えさせられます。

3、コリント教会の状態

コリント教会がパウロの期待していたような人たちではないというのは、どういうことでしょうか。具体的にまず8つのことを挙げて、「争い、妬み、憤り、利己心、悪口、陰口、高慢、騒乱などがあるのではないだろうか」と問います。やはり、コリント教会の今の状況について何らかの具体的な話がパウロに届いていたのでしょうか。

しかしこのリストを見て、約二千年前の、しかも地理的にも遠く離れたコリントのこととは思えません。どこの教会でも「こういうことがあるのではないだろうか」と問われたら、「ドキッ」としてしまいそうです。いつの時代でも、どこの場所でも人のすることは変わらないものです。

これら8つのことに共通していることは自己中心の罪があることです。そして大まかには前半の4つはどちらかというと心の中の問題で、前半の4つの心が後半の4つの行動を引き起こして行くと言えます。

争いは自己中心を通そうとする心によって起こります。先程の、キリストにあって語るのではなくて、自分にあって、自己中心の考えを貫き通して語ることによって争いは起こります。妬みは丸で世界の中心は自分であるが如くに考えて、他の人が自分よりも優れていることを羨むことです。

憤りは箴言15:18で、憤りやすい者はいさかい(争い)を引き起こすとあって、争いの原因となります。利己心を新改訳は党派心と訳し、自分の勢力を拡大する分派行動を起こす心です。コリント教会では、「私はパウロに付く」、「私はアポロに」等という分派がありました(Ⅰコリント1:12)。

後半4つの行動の初めの悪口は自分だけが正しいと思って争う心から起こって来ます。自分は正しく他の人は間違っていると思うので悪口を言います。陰口も同じですが、陰で言えば本人には伝わらないと思って言いますが、いずれ本人の耳に届くものです。悪口や陰口は自分が言っても人から聞いても気分の良いものではありません。

悪口や陰口が無くなればどれほどに平和になることでしょうか。高慢は自分だけが正しいと思う心から起こって来ます。クリスチャンはキリストに仕える者として高慢とは正反対の謙遜に生きる者です。そしてこの3つの悪口、陰口、高慢のある所には、滅茶苦茶な騒乱が起きます。

この手紙はコリント教会員向けですので、読者は皆クリスチャンで新生している人ですが、信仰的に成長していない、聖化の恵みに与かっていない人のしるしが、これらの8つのことです。神がすべての人に語られる言葉として真摯に受け止めたいと思います。

これらは先週の18節にありました、同じ霊をもって、同じ足並みで歩むとは正反対の姿です。再びコリントに行くときにパウロは、「私の神があなたがたの前で私に面目を失わせることをなさらないだろうか」と問います。パウロにとっては面目を失うこと自体は何ともないことです。

しかし面目を失う理由が、愛する霊的な子であるコリント教会の罪深い姿を見て面目を失うのは、霊的な父として悲しいことです。そしてそれはパウロ一人が悲しむことではなく、パウロは神の前で、キリストにあって語っていますので、神もキリストも悲しまれることです。

パウロにはコリント教会が争いから騒乱に至る問題ともう一つの気になる罪がありました。これもパウロの洞察なのか何か情報が入っていたのかは分かりません。それは以前に罪を犯した多くの人々が自分たちの行いを悔い改めずにいることです。

罪は3つ挙げられ、汚れた行い、淫らな行い、ふしだらな行いで、殆ど同じような意味です。敢えて分けるとするなら、汚れた行いは肉の欲に従う不道徳な行いで、淫らな行いは特に売春を指し、ふしだらな行いは節度を越えた行いです。

具体的にはⅠコリント5:1には、ある人が父の妻、つまり義理の母と一緒になって高ぶっている問題がありました。そのような姿を、私が嘆き悲しむことになるのではないだろうか、とパウロが問うことは、神もキリストも悲しむことであるのだから良く考えなさいということです。

4、不信仰が辿る道

コリント教会はなぜこのような状態になるのでしょうか。同じような内容がローマ1:18~32の「人間の罪」に書かれています。そこには、人間が不信仰になる場合にどのような経緯を辿るかが、5段階で書かれていました。1番に不信仰な者は(21節)、2番で偶像礼拝となり(23節)、3番で性道徳の乱れ(24節)、4番であらゆる悪の行いをし(29節)、5番で死に至ります(32節)。今日の聖書個所を見ますと、19節でパウロは神の前で、キリストにあって語っていますが、不信仰なコリント教会はパウロがコリント教会に対して弁明をしていると思います。コリント教会は神よりも人を優先する偶像礼拝に陥っています。

偶像礼拝に陥っている者には20節の第4段階の8つのあらゆる悪の行いがあります。そして第4段階のあらゆる悪の行いがあるところには、当然の如く21節のその前の第3段階の性道徳の乱れがあります。その行き先は明らかです。

5、同じ足並み

ではそのような段階を辿らないようにするためにはどうしたら良いのでしょうか。先週の18節に、同じ霊をもって、同じ足並みで歩むということがありました。そのためにはキリストにすべてを献げて、キリストを頭とする一つの体の部分になることによって、お互いを思い遣り、異なる足並みを同じ足並みに揃えることをお話しました。

今日はもう一つの方法をお話したいと思います。足並みを揃えるには二つの方法があります。一つは先週の異なる足並みを同じ足並みに揃える方法です。そしてもう一つは初めから皆が同じ一つの足並みにすることです。これは雪道や山道を歩くことをイメージすると分かり易いかも知れません。

雪道や山道を歩く時には前の人が歩いた足跡の付いている所を歩いて行くと歩き易く安全なものです。では私たちの人生の雪道、山道の先頭を歩いて安全な道を私たちに示してくださるお方はどなたでしょうか。

クリスマスにこの世に来られた主イエス・キリストです。私たちの人生の道には色々な岐路があります。しかし私たちには岐路の行く先を示す案内板である聖書が与えられています。そして案内板である聖書には、不信仰→偶像礼拝→性道徳の乱れ→あらゆる悪の行い→死、とはっきりと書かれています。

いくら歩き易そうな道に見えても、最終的には死に至るとはっきりと書かれている道を選ぶのは愚かなことです。岐路にはもう一つの祝福の道として、信仰→神礼拝→秩序ある人間関係→正しい行い→天国、と書かれています。

この祝福の道を歩む者には、案内板が示されるだけではなくて、聖霊の力強いサポーターが付いてくださいますので安心です。そしてこの祝福の道を歩む毎に、神は私たちを成長させ造り上げてくださいます。キリストはクリスマスにこの世に来られて、私たちにこの祝福の道を切り開いてくださいました。感謝し喜んでこの祝福の道を足並み揃えて歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはクリスチャンになっても、自己中心の思いに囚われ易い弱い者です。しかしすべてをご存じである神は、クリスマスにキリストをこの世のお遣わしになり、私たちの歩む道を示してくださいましたから有難うございます。

私たちが聖霊によって示される祝福の道を歩み、あなたによって造り上げられ、成長して行けますようにお守りお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。