「仕業に見合った最期」
2021年11月7日説教
コリントの信徒への手紙二 11章7~15節
主の御名を賛美します。私たち人間は不完全ではあっても、親の子に対する愛は純粋で、親は子どもに対して献身的に仕えるだけで、負担をかけないようにとするものです。子どもに負担をかけないことを誇りとしている親の話は良く聞きます。
私の両親も私たち兄弟に向かって、「お前たちの世話にはならない」と良く言っていました。また親は、子どもからすると時には鬱陶しいと思える程に世話をしてくれるものです。私が結婚する時には私の母が、男はきちんとした印鑑を持っていなければだめだと言い出して、高額な印鑑を作ると言いました。私は印鑑は百円のが良いと言いましたが聞いてくれません。
散々の議論した挙句には、母親の誇りのため、またそれが私にためにも役に立つという母の信念を通させてあげることも親孝行かと思って、ただ一番高そうな象牙だけは止めてくれと言って、下のグレードの物にするということで妥協することにしました。親の愛は有難いと思います。
1、無報酬
パウロはコリント教会で無報酬で奉仕をしていましたが、偽使徒はそのことでパウロを攻撃していました。偽使徒の目的はパウロの足を引っ張って自分たちの立場を優位にすることなので、パウロが報酬を得ていれば、それは金儲けのためだと攻撃するでしょう。偽使徒はパウロが何をしても言い掛かりを付けて攻撃します。
伝道者は奉仕によって報酬を得ていました。このことは主イエスもマタイ10:10で12弟子に対して、「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」と言われました。旧約の時代でもレビ人は献げものによって生活をしていました。
この当時も報酬額によって伝道者のランク付けがされていました。話の上手い有名な伝道者は多額の報酬を得ていました。そこで偽使徒は、パウロは話し振りは素人で、エルサレムの教会からの推薦状もない、だから報酬を得ることが出来ない偽物だと攻撃したようです。
その攻撃に対する反論として、神の福音を無報酬で告げ知らせたのは、何とかしてコリント教会を高めるためです。高めるというのは、神の福音を受け入れて信仰的に高めることです。そのためにはパウロは自分を低くしますが、低くするというのは当然受ける権利のある報酬を受けないことです。
とても献身的な姿勢です。「それが罪になるのでしょうか」と問うのはとても皮肉な質問です。パウロはコリント教会のところにいて生活に困ったときも、誰にも負担をかけませんでした。しかしパウロはコリントでなぜ無報酬で奉仕が出来たのでしょうか。
2、パウロの支え
パウロは他の教会から奪い取って、コリント教会に仕えるための賃金を得ました。「奪い取って」とうのは大袈裟な強調する表現です。普通は賃金を仕えるところから得ますが、パウロはコリント教会に仕えながら他の教会から賃金を得たので、それは他の教会から「奪い取る」ことになるという皮肉な表現なのかも知れません。
若しくは偽使徒はパウロは教会から賃金を奪い取っていると批難していて、パウロは皮肉を込めて、その通りの表現を使ったのかも知れません。マケドニアから来た兄弟がパウロの欠乏を補ってくれました。具体的には使徒言行録18:5で、シラスとテモテがマケドニアから献金を持って来たことで、それでパウロはそれ迄のテント造りを止めて御言葉を語ることに専念しました。
シラスとテモテはどこからの献金を持って来たのかというと、フィリピ4:15で、「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした」と言いますので、パウロを支えたのはフィリピの教会です。
パウロは色々な困難に直面していましたが、神はパウロの生活を支えるためにフィリピの教会を備えて、その献金を届けるためにシラスとテモテを備えられました。本当に必要なものは神が備えてくださいます。パウロを支えるフィリピの教会やシラスとテモテの様な人がいるので伝道者は生きて行けます。
パウロは何事につけ、コリント教会の重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。そしてパウロの内にあるキリストの真理にかけて、パウロの負担をかけないという誇りがコリント教会のあるアカイア地方で封じられることは、決してありません。
しかしパウロがコリント教会に負担をかけないのはなぜでしょうか。普通は受益者負担で、奉仕を受けるコリント教会がそれに見合った賃金をパウロに支払うのが自然です。パウロがコリント教会を愛していないからでしょうか。愛する者同士は夫婦の様に、負担も共にして生きて行くものです。
パウロは「それは、神がご存じです」とだけ言います。パウロは2節で、コリント教会を妬むほどに愛していると言っています。コリント教会はパウロが第二次宣教旅行で生み出した霊の子どもで、パウロはコリント教会の父の様な存在です。親子の愛の関係がそこにはあってパウロの父としての誇りがあります。
3、偽使徒
パウロは今していることを今後も続けるつもりですが、それは単なる自分の誇りのためだけではありません。それは、もう一つの理由として、パウロたちと同じように誇れるようにと隙を狙っている者たちから、その隙を絶つためです。
10:15で、コリント教会の信仰はまだ十分に成長していないと言っています。ここでパウロが報酬を受け取ると、隙を狙う者はパウロも報酬を受け取るのだから自分たちと同じだという、付け入る隙を与えることになってしまいます。そこでその様な隙を絶つ必要があります。隙を狙う者に対して注意して強調するために、3通りの言い方をします。まず偽使徒、そして人をだます働き手、キリストの使徒を装っている、です。そしてこういう者が教会の外ではなくて、中にいます。この手紙を物語ではなくて、実際の手紙として受け取るコリント教会はどのように感じたことでしょうか。
とても驚いたことでしょう。もしもこの手紙が茂原教会に届いたらどの様に感じるでしょうか。とても驚くでしょう。そしてまさか教会の中に、そんな者がいるなんて、万が一に教会の中にいたとしても、それはうちの教会ではないでしょう、と思うことです。
パウロは、「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」と言います。この文章は大きく二つの意味に考えることが出来ます。
一つ目は、ここでいう偽使徒が明らかな異端の者であることです。そういう者が実際にいて、ホーリネス教団の教会に入り込んで来て、私も対応をしたことがあります。しかしそれはある意味で、極端な例です。
二つ目は、サタンというのは神の敵対者という意味です。神に仕えるのではなく、神以外のもの、自分の考え等に仕える者です。その様な者が義に仕える者を装って、人をだまします。ここにはサタンと出て来ますので、自分とか茂原教会には全く関係ないことと思われるかも知れません。
しかしそれ程に単純なことではありません。積極的にサタンに仕える者などはここにはいないと思います。しかし義に仕えようと思いつつ、自分の考えに仕えてしまい、結果的に人をだますようなことになってしまうことは多かれ少なかれ私を含めて誰にでもあるものではないでしょうか。
また自分では義に仕えているつもりでも、自分の勘違いで自分も間違えて人を間違った方向に導いてしまうこともあります。神は動機を見られるお方ですので、勘違いで間違えた過失は悔い改めるならば赦してもらえますが、初めから人を騙そうとする確信犯には報いられます。
また普段から少しずれたことを言う人がずれたことを言っても、多くの人は初めからあの人の話はずれていると思って話半分に聞くから余り問題はありませんが、真に受けてしまう人もいます。しかし光の天使の様に思われている人が義ではなくて、自分の考えに仕えると多くの人がだまされて混乱が生じてしまいます。
本人が意図していなくても話が義からずれていると問題が起きてしまいます。その様なことにならないためには、本当に聖霊の導きを求める必要があります。
4、仕業に見合った最期
ここに一つの大きな問題があります。それは何かというと、エレミヤ12:1Ⅽの、「なぜ、悪しき者たちの道は栄え、裏切る者たちが皆、安穏としているのですか」という問いです。確かにニュースを見ていると明らかに悪いことをしたと思われる有名人の道は栄えています。そして安穏として贅沢な暮らしをしています。
もしも悪しき者たちの道は衰え、何をやっても上手く行かず、裏切る者たちが皆、不安の中にいれば、悪いことをすると、あの様になるのかと皆、納得して悪から離れて、正しい生き方をするかも知れません。しかし正しい生き方をしても栄えず、安穏と出来ずに、逆に悪しき者が栄え、安穏としているなら、悪しき生き方をした方が得ではないかと思ってしまうかも知れません。
皆さんはどのように考えられるでしょうか。しかしパウロは、「彼らの最期は、その仕業に見合ったものとなる」と言います。聖書協会共同訳の「最期」と言う字は「死に際」という意味です。パウロは最期に注目して、途中の事には目もくれません。途中にはなるほど、悪は栄えるかも知れません。
しかしその最期には、その仕業、行いに見合ったものとなると言います。しかし反論される方もおられるかも知れません。いやあの悪しき者は長寿を全うして、その死に際も安らかで、それとは反対に、あれ程良い人が早死にした。全く人生は不公平だと思われる方もおられるかも知れません。
確かにこれだけ献身的に奉仕しているパウロも最後はローマで殉教したと言われていて、主イエスの12弟子もヨハネを除いて殉教したと言われます。しかしパウロがここで最期と言っているのはこの世での死の時のことを言っているのではありません。
この世の終わりのことを言っています。主イエスがマタイ25章で言われたように、全ての人はこの世で行った仕業に見合ったさばきを受けることになります。パウロはⅡテモテ4:8で、「今や、義の冠が私を待っているばかりです」と言います。
パウロにとっては終わりが全てで「終わりよければ全てよし」です。しかし終わりと言っても、それはこの世の終わりであって、その後には永遠の世界が始まります。そうすると私たちに与えられている選択肢は二つです。
悪しき者として生きて有限のこの世の繁栄を楽しみ、永遠の滅びを選ぶか、この世を義に仕える者として生きて、義の冠を受けて永遠の世界を神と共に生きるかです。迷う必要も無く、答えは明白です。私たちに永遠の命を与えるために主イエスは十字架に付かれ、私たちが義に仕える者として生きるために、聖霊が力を与えてくださいます。
私たちは途中経過の目先の事だけに目を奪われてはいけません。大切なのは最期、この世の終わりです。そこから永遠は始まります。主イエスを信じて、聖霊の力を頂いて、良き仕業をさせていただき、最期のこの世の終わりの時を喜んで迎えさせていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロに敵対する偽使徒はあの手この手を使ってパウロを陥れ、コリント教会を騙して自分たちの利益を得ながら、光の天使を装っていました。例えこの世では栄えたとしても全能の神は全てをご存じです。
そして全ての人は、その仕業に見合った最期を迎えると言われます。私たちはその言葉を恐れるのではなくて、期待して喜んで、聖霊の力を頂いて、この世の仕業をなすことが出来ます用にお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。