「喜び、拝み、献げるクリスマス」

2012年12月19日説教  
マタイによる福音書 2章1~12節

        

メリークリスマス。クリスマスはクリスチャンでない人にとっても、クリスチャンとは違う意味で大切な日のようです。クリスチャンでない日本人にとっても、特に若い人にとってはクリスマスイブを誰と過ごすのかが大切なことのようです。クリスマスイブをカップルで過ごすという目的のために相手を探すというようなことを聞いたことがあります。

クリスマスの本来の意味とは全く違いますが、クリスマスを強く意識しているようです。理由は何であれクリスマスが尊重されていることは有難いことで、クリスチャンがクリスマスの本当の意味を伝える機会にしたいと思います。クリスマスの意味を御言葉から聴かせていただきましょう。

1、東方の博士たち

教会に長く通っている方や聖書を良くご存じの方は、クリスマス礼拝でこの聖書個所が開かれることに違和感を覚えられるかも知れません。この箇所は主の顕現日と呼ばれて、カトリックでは今年度は来月の1月2日に読まれる個所です。

内容的には確かに主イエスがお生まれになられたクリスマスより後のことも含まれていますが、クリスマスの意味を聴くために相応しい個所ですので、プロテスタントではクリスマス礼拝でも開かれる個所です。主イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。色々なことを考えさせられる御言葉です。

東方の博士たちは何者なのでしょうか。彼らは東方で、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見たので、拝みに来ました。東方というのは恐らく天文学の発達していた東のバビロンかその辺りだと思われます。博士たちは星を見ました。主イエスは神の御子、救い主であられ、ヨハネ1:9では、「すべての人を照らすまことの光」と言われます。

主イエスが十字架に付けられた時には、光である主イエスを失うことを象徴するように、昼の12時から3時まで3時間に渡って全地は暗くなりました。光である主イエスがお生まれになられた時に、光る星が現れたのは、これも象徴的なことです。

東方の博士たちは良く3人のように言われますが、これは贈り物が黄金、乳香、没薬とユダヤ人の大好きな3つなので、3に合わせて一人一つの贈り物をしたとして作られた伝説です。実際には荷物を運ぶお供の人が沢山いたと思われ、百人位だったのではないかと言う人もいます。

東方の博士たちは恐らくユダヤ人ではないはずですが、ユダヤ人の王が生まれることをなぜ知っていたのでしょうか。これは旧約の時代に捕囚でバビロンに連れて行かれたユダヤ人から、救い主が生まれることを聞いていたのだと考えられます。

もし東方がバビロンだとしたら、エルサレムまでは1300キロはあります。時速5キロで1日8時間歩いて40キロとすると33日は掛かります。恐らくもっと掛かっていると思われますが、博士たちはどうしてそこまでして来たのでしょうか。博士たちも人生の闇、この世の闇を感じていたのでしょう。

そのような時に、ユダヤ人から聞いていた救い主の誕生を示す光輝く星を見ました。この星が示す救い主を信じたいという強い思いが与えられました。だからこそ千キロ以上の道のりを危険をも顧みずにやって来ました。「星を見たので、拝みに来た」という言葉に求める強い思いが込められています。

今は博士と訳されていますが、一つ前の訳の新共同訳では占星術の学者と訳されていて、簡単に言うと星占い師です。そうするとクリスチャンは戸惑います。占いは申命記18:10で明らかに禁止されています。しかし星占いによって救い主イエス・キリストの誕生を示されたことは、どのように受け止めたら良いのでしょうか。

まずこの時代は学問としての天文学と占いとしての占星術が一体となっていて、その境目が曖昧でした。そして神は真剣に求める者には、異教の習慣をも用いて救いへと導いてくださいます。しかし星占いはイエス・キリストの誕生を示して良く当たるので、現代でも有効という訳ではありません。

この時は救い主を真剣に求める異邦人を導くために用いられましたが、現代では神の言葉の書かれた聖書があり、信じる者の内にはイエス・キリストがおられ導いてくださいますから、星占いは不要であって、関わるものではありません。

博士たちはエルサレムで、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねており、エルサレムに情報を集めに来たというよりは、ユダヤ人の王はエルサレムで生まれたと思っているようです。若しかすると博士たちはユダヤ人から、ユダヤ人の王はダビデのような人で、ダビデが首都にしたエルサレムに生まれるに違いないと聞いていたのかも知れません。

博士たちがもしも現代の日本に日本人の王を探しに来たら、永田町か皇居の辺りに行くかも知れません。まさか茂原には来ないでしょう。しかし救い主は首都エルサレムにお生まれになるのではなくて、ユダヤのベツレヘムという小さな町の家畜小屋の飼い葉桶に来られました。

現代でも救い主は華やかなエルサレムのような所ではなくて、飼い葉桶のような小さな所に来られるお方です。ベツレヘムは、パンの家という意味で、命のパンである主イエスのお生まれになるのに相応しい場所です。今日の聖書個所にはエルサレムが2回、ベツレヘムが2倍の4回書かれて強調されています。

2、ヘロデ王と祭司長たち

ヘロデ王はとても疑い深い人です。周りの人が自分の地位を狙って、脅かそうとしていると疑って、自分の奥さんや子ども、親族なども殺してしまった人です。神を信じて信頼しない人は、どんなに偉くなっても心に平安が無く、不安を抱いています。

ユダヤ人の王が生まれたという話を聞いてヘロデ王はまた不安を抱きました。そして消してしまおうと思ったようです。エルサレムの人々も皆、また血の雨が降ることになると思って、また自分たちも巻き添えを食う羽目になるのではないかと思って不安を抱きました。

ヘロデ王は早速に手を打って、祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしました。彼らはユダヤのベツレヘムと答えて、その理由としてミカ書5:1を引用します。流石は祭司長たちや律法学者たちで聖書のことを良く知っています。メシアが生まれること、生まれる場所も知っています。しかし博士たちがメシアが生まれたと言っているのに全く無関心です。エルサレムからベツレヘムはたったの8キロで歩いても2時間位です。異邦人の博士たちは千キロ以上離れた遠くから1か月以上も掛けてやって来たのに、祭司長たちは8キロの距離を行こうともしません。本来なら真っ先に駆けつけても良い人たちです。そればかりか悪人のヘロデ王に利用されてしまいます。

私は聖書を読む時には自戒を込めて、祭司長と律法学者はクリスチャンと読み替えるようにしています。クリスチャンではない人が、違う意味かも知れませんがクリスマスを強く意識している時に、クリスマスのことを一番良く知っているクリスチャンが祭司長たちのように何か関心を失っている部分はないかと考えさせられます。

ヘロデ王は博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめました。その後に16節で、ヘロデ王は博士たちから確かめた時期に基づいて二歳以下の男の子を殺していますので、主イエスの誕生からは時間が経っていると考えられます。確かに博士たちは少なくとも1か月以上は掛けて来ていると思われますので。

ヘロデ王は博士たちを送り出す時に、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」と最もらしい言い訳までします。しかし自己中心で罪を犯す者はやることなすこと全てが、ずさんです。

本当にメシアの居所を知りたかったら、8キロ位の距離を横着しないで自分の部下を派遣すれば良かったはずです。また主イエスがお生まれになった本当の理由を理解すれば誰も殺す必要はありませんでした。主イエスはヘロデ王の地位を狙っていた訳ではありませんので。

ヘロデ王はまた自分の評判の悪さにも気付いていないようです。賢い博士たちは、エルサレムの人々が不安を抱いているヘロデ王の悪評を恐らく耳にしていて、ヘロデ王が言った、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから」という言葉を文字通りには受け取っていないと思われます。

3、喜び、拝み、献げる

博士たちがヘロデ王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まりました。博士たちはその星を見て喜びに溢れました。この星は旧約聖書でエジプトを脱出したイスラエルを荒れ野で導かれた昼間の雲、夜の火の柱のようです。

星はそれ自体が光ですが、主イエスというまことの光へと導くものです。現代を生きる私たちにとって主イエスに導く星とは何でしょうか。主イエスに導くものということでは、神、聖霊、聖書等と考えられますが、まずは聖書と言えます。聖書はギデオン協会等を通して世界中の人々に配布されています。

博士たちのように、聖書がまことの救い主に導くものであるということが分かる人は、喜びに溢れます。そこには初めの人であるアダムとエバ以来、ずっと人間が求め続けて来た、救いがあるからです。博士たちは千キロ以上という距離も厭わずに喜びに溢れて星に従いました。

茂原教会の今年度の御言にある通り、人は神のかたちに創造されました。人にとって神を知って、神と交わることが最上の喜びであって、それ以上の喜びはありません。私たちも毎日、聖書を喜びに溢れて読ませていただきましょう。

博士たちが星に示された家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられました。そこは博士たちが想像していたエルサレムの華やかな家とは違っていましたが、星が示した厳粛な雰囲気があったことでしょう。博士たちはひれ伏して幼子を拝み、礼拝しました。

救い主との出会いの喜びに溢れると、救い主にひれ伏して拝み、礼拝したいという気持ちにさせられます。神のかたちに創造された人は、神を礼拝することが自然なことです。博士たちは救い主を拝むことに続いて、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。

神を礼拝する者は、救いに対する感謝の応答として、神によって救われて神のものとされた自分自身を献げる献身をします。献げ物は自分自身の献身ですからそれに相応しいものを献げます。黄金、乳香、没薬は博士たちが献げられる最高のものであったと思います。

黄金は王であることを表し、乳香は神であることを表し、没薬は死者に塗る物でありキリストの死を予兆します。クリスマスは単なるイベントではありません。救い主の誕生を心から喜び、拝み、自分自身を献げる時です。私たちも今日、本物のクリスマス礼拝を献げましょう。

本物のクリスマス礼拝を献げた博士たちに、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがありました。ヘロデ王の悪評を耳にしていた博士たちは、やはりそうかと思ったことでしょう。別の道を通って自分の国へ帰って行きました。

これは救い主を喜んで、礼拝して、献げた人は、礼拝の前とは変えられて、来た道と同じ道を通って悪人の元には帰らないことを表しています。今日は皆さんはどの道を通って自分の家に帰られるでしょうか。慣れない所を通っても事故に遭わないだろうと思われる方は、どこか一か所だけでも、いつもと違う道を通って帰ってみても良いかも知れません。

別に無理をする必要はありませんが。大切なことは違う道を通って帰ることではありません。救い主の誕生であるクリスマスを心から喜び、礼拝し、自分自身を献げて、新しい生き方をして行くことです。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。救い主はエルサレムではなくてベツレヘムの飼い葉桶に来られました。私たちも聖霊の働きによって、ベツレヘムの飼い葉桶のように心を低くして救い主を迎えられますように整えてください。

そして現代の星である聖書の言葉に喜びに溢れ、主を礼拝し、自分自身を献げさせてください。礼拝を通して主に変えられて新しい道を歩む者とさせてください。また救われる者が神に用いられる星とされて、神を知らない人を導く者としてお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。