「内におられるイエス・キリスト」 

2021年12月12日説教 
コリントの信徒への手紙二 13章1~6節

        

主の御名を賛美します。先月末に私の家族がコロナウイルス感染者の濃厚接触者になる可能性がありました。濃厚接触者となる人は残念ながら世界中に多くいます。濃厚接触者に限らずに何でもそうですが、ニュースで世間話のように聞くのと、いざ自分がその当事者になるのとでは感覚が全く異なるものです。何事においても他人事と捉えるのではなくて、当事者意識を持つことによって見えてくることがあることを教えられます。

1、三度目の訪問

これまでコリント教会への手紙の一、二から御言葉を聴かせていただいて来ましたが、いよいよ最終章に入ります。パウロの結びの言葉です。パウロがコリント教会に行くのは、次で三度目です。一度目は第二次宣教旅行でコリント教会を開拓した時、そして二度目は2:1の悲しい訪問です。

パウロは12章から「3」という数字を強調して、12:2では「第三の天」、12:8では「三度主に願った」、12:14で「三度目の訪問」と言って来ました。「3」の本当の狙いはこの三度目の訪問にあるようで、この13章も原語では三度目を強調して三度目(トリトン)という言葉で始まっています。

トリトンはギリシャ神話では海神ポセイドンの息子の名前で同じく海神です。トリトンは世界を構成する第三のものである海から来ています。手塚治虫はギリシャ神話のトリトンから名前を取って、「海のトリトン」という漫画の題名にしました。今日はアドベント第3主日、トリトン・アドベントです。

さて三度目の訪問について、「すべてのことは、二人ないし三人の人の証言によって確定されるべきです」と申命記19:15を引用します。しかし言っている話の繋がりが分かり辛いかも知れません。申命記の規定は、証言には三人の違う人の証言が必要であることを言っていて、パウロは同じ一人の人であるパウロが三度訪問して証言することです。

一人の人が三度行って証言すれば、三人の証言ということになるのでしょうか。そういう意味ではないようです。12章で「3」の数字が3回使われて強調されていましたが、ユダヤ人にとって、3は完全数で完全という意味です。パウロがコリント教会で罪を犯している者の証言者を集めようとすれば、3人は簡単に集まるはずです。

しかしそうではなくて、パウロはコリント教会で罪を犯している者に対して警告する回数を言っているようです。一度目は手紙一で5章等で以前罪を犯した者たちと、他のすべての人々に言いました。そして二度目は二度目の滞在中に前もって言っておきました。

そして離れている今もあらかじめこの手紙で三度目として言っておきます。あながたには三度、完全に言いましたということです。日本の表現で言いますと、クリスチャンとしてどうかとは思いますが、「仏の顔も三度まで」ということでしょうか。

今度は情けはかけません。情けはかけないというのは、どうすることなのでしょうか。恐らく除名等の戒規を執行すると考えられます。罪を犯す者を悔い改めへと導いて赦すのがキリストに仕えるクリスチャンです。

罪を悔い改める者は赦しますが、悔い改めない者に対しては教会の秩序を守るために戒規を執行せざるを得ない時があります。ただ戒規を執行する場合にもその目的は、罪を犯す者を「倒すためではなく建てるため」(10節)です。

2、パウロの反対者

なぜこれほどに強い態度でパウロは言うのでしょうか。パウロの反対者たちはキリストによって遣わされた使徒パウロによって、キリストが語っておられる証拠を求めているからです。これはパウロに対する反対というよりも、パウロを使徒として遣わされたキリストに対する反対です。

このような問題は旧約の時代からずっと続いている古いけれど、いつの時代にもある問題です。茂原教会では、このコリントの信徒への手紙の前に、民数記から御言葉を聴かせていただきました。民数記16章でレビ族のコラたちが250人の会衆と共に、神が立てられたモーセとアロンに反逆したために滅ぼされました。

コリント教会のパウロの反対者たちがこの後にどうなったのかは分かりません。一番良いのは、この手紙によって悔い改めることです。順番がある訳ではありませんが、次にまだましと言いますか良いのは、パウロによる、倒すためではなく建てるための戒規によって悔い改めることです。

その次は、まだ悔い改めて回復の余地のあるような神のさばきを受けることでしょうか。コラたちのように滅ぼされては悔い改めの余地も残されないことになります。コラたちだけではなくて、神に遣わされた人に反逆した人たちがその報いを受ける記事は聖書の中に多く書かれています。

しかし残念ながら同じようなことは繰返し起こっています。この当時はまだ印刷技術もありませんし、文字を読める人も少なかったので、聖書の内容はすべてのクリスチャンには知られていなかったのかも知れません。しかし現代では誰でも簡単に聖書を手に入れることが出来ます。

クリスチャンは大体、自分の聖書を持っているものです。そして人の行いのすべては聖書に書かれています。聖書を他人事として読むのではなくて、自分のこととして読むと、どのような行動がどのような結果を招くのかが分かります。自分で経験する前に聖書から学んで、間違った道は避けるように賢く生きて行きたいものです。

3、キリスト、パウロたち、反対者たちの弱さと強さ

パウロは、キリストと自分たちと反対者たちの3者について、それぞれの弱さと強さについて語ります。ここでも3という数字を強調するのがユダヤの文化なのかも知れません。聖書の順番とは変えて、まずキリストについて見たいと思います。

キリストは十字架につけられましたが、それはすべての人の罪を背負われて、神から見捨てられた弱さのゆえです。しかし神の力によって死から復活させられ、今も生きておられる力強いお方です。

次にパウロたちはどうでしょうか。パウロたちを含めてクリスチャンはキリストにあって弱い者です。キリストにあって、すべての人は罪人であって、キリストの十字架による罪の赦し無くして、生きて行くことの出来ない弱い者です。

しかしクリスチャンはキリストを救い主と信じる信仰によって、神に罪を赦されて、キリストを頭とするキリストの体としてキリストと共に生きるものです。神に遣わされた使徒パウロに反対する者たちに対しては、パウロたちは復活された強いキリストと共に生きる強い者です。

反対者たちはどうでしょうか。キリストはあなたがた、反対者たちに対して弱い方ではなく、あなたがた、反対者たちの内にあって強い方です。「あなたがたの内にあって強い方」とはどういう意味なのでしょうか。クリスチャンである、「あなたがたの内にはイエス・キリストがおられるのです」。

4、内におられるキリスト

クリスマスにこの世に来られたキリストは今、どこにおられるのでしょうか。キリストを救い主と信じる信仰者の一人一人の内におられます。キリストは神の力によって十字架の死から復活させられた強いお方で、強い力で私たちの内から働かれます。

キリストを信じても、人生は大して変わらないではと思うでしょうか。キリストを信じる者には、十字架の死から三日目の復活させられた神の力が働きます。もうすべて死んでしまって望みもなくなってしまったような人生にも復活の力が働きます。ローマ1:16に、「福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」とある通りです。

新約時代を生きる信仰者は旧約時代より遥かに恵まれていると言えます。旧約の時代には信仰者の内にキリストがおられることは無かったはずです。しかし現代では内におられるキリストが信仰者を導いてくださいます。

内におられるキリストが導いてくださっているにも関わらず、どうしてあなたがたはそれに従わないのですかというのがパウロの問いです。そこでパウロは、「あなたがたは、信仰の内にあるかどうか、自分を試し、自分を吟味しなさい」と命じます。

信仰の内にあるとはどういうことでしょうか。信仰についてローマ10:17は、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」と言います。信仰はキリストの言葉である聖書の言葉によって起こるものです。

聖書のすべての言葉は神が遣わされた人々を通してキリストが語ったものです。ヨハネ1:1に、「言は神であった」とある通りです。信仰は人間が自分で考えて正しいと思うことを信じることではありません。あくまでもキリストの言葉をそのまま信じることです。

パウロは、反対者たちが明らかに信仰、キリストの言葉の内にあらず、自分たちで正しいと思い込んでいる内にあることが分かっています。そこで自分を試し、自分を吟味しなさいと勧めます。なぜなら正直に自分を試し、吟味するなら、自己中心の思いにあることに気付かされるからです。

自己中心であることに自分で気付くのではありません。キリストを信じる者の内にはキリストがおられますので、内におられるキリストが気付かせてくださいます。あなたがたの内にはキリストがおられることが、あなたがたは分からないのですか、と問います。

クリスチャンであるなら、分からないはずがないではないかという問い掛けです。キリストが内におられるにも関わらずに、コラと同じような罪を犯すなら、コラよりも厳しい結果を招くことになりかねません。

5、失格者

「ただし、あなたがたが失格者なら別ですが」と厳しい条件付きです。キリストはキリストを信じる者の内におられて復活の力で強く導いてくださいます。しかしクリスチャンはキリストの操り人形ではなくて、内におられるキリストの声に逆らって行動する自由が与えられています。

内におられるキリストの声を聴かず、従わない者は失格者です。パウロは、私たちが失格者でないことを、あなたがた反対者が知るようにと願っています、と言います。同じクリスチャンでも人それぞれですので、聖書に書かれていないことでは考え方が分かれることはあります。

しかし聖書がはっきりと教える罪から離れることで考え方が分かれるとしたら、それは本物のクリスチャンか失格者かのどちらかです。別の表現をするなら、内におられるキリストに聴き従うか、聴き従わないかです。誰がどちらなのかは人の目は誤魔化すことが出来ても、パウロたちのように見る人が見れば分かるのでしょう。

12:18に、「同じ霊を持って、同じ足並みで歩む」ことがあって、その一つ目の方法として12:14~18では、お互いが思い遣ることによって同じ足並みにすることを聴きました。そして、二つ目の方法として12:19~21では、同じキリストの足跡を皆が辿ることによって同じ足並みとすることを聴きました。

今日は三つ目の方法として、内におられるイエス・キリストに皆が聴き従うことによって同じ足並みで歩むことが出来ます。皆が同じ内におられるイエス・キリストに聴き従うなら、大きなことで足並みがずれることはありません。

6、アドベント第三主日

今日はアドベント第三主日で、主のご降誕を待ち望む時で、次週はクリスマス礼拝です。キリストはクリスマスにこの世に来られて、今はキリストを信じる一人一人の内におられます。アドベントは到来という意味で、キリストが約二千年前に初めにこの世に来られたクリスマスを待ち望む時であると共に、再びこの世に来られる再臨を待ち望む時でもあります。

またそれと共に心を静めて一人一人の内におられるイエス・キリストと向き合う時でもあります。いくら町や教会でクリスマスをお祝いしても、自分の内にイエス・キリストがおられなければ空しいものです。クリスマスも他人事では意味がありません。

まだ自分の内にキリストをお迎えしたことが無いという方は、どうぞお迎えください。そして本物のクリスマスをお迎えください。また忙しくしていて、自分の内におられるキリストと向き合う時間が余り取れなかった方は、ぜひ向き合う時を持って次週のクリスマス礼拝をお迎えください。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはパウロを通して、キリストを信じる者の内にはキリストがおられると言われます。まだキリストをはっきりと自分の内にお迎えしたことが無いという方に、どうぞキリストがお望みください。そしてはっきりとお迎えすることが出来ますようにお導きください。

また既にクリスチャンになっておられる方も、このアドベントに、内におられるキリストと親しく向き合う時を持つことが出来ますように、そして次週のクリスマス礼拝を心から喜び祝うことが出来ますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。