「愛と平和の神と共に」 

2021年12月26日説教 
コリントの信徒への手紙二 13章7~13節

        

主の御名を賛美します。いよいよ今年最後の主日礼拝となりました。キャンドル礼拝でもお尋ねしましたが、皆さんにとってどのような年だったでしょうか。今年も教会にも、また私も個人的にも色々なことがありましたが、今日このように皆さんと共に礼拝の出来る恵みを感謝します。

昨日がクリスマスだったので教会はクリスマスの飾り付けが残っていると思われるかも知れません。キリスト教の暦では、一昨日のクリスマスイブからキリストの降誕を祝う降誕節に入って、主の公現の1月6日、その後の主の洗礼の日迄続きますので、降誕節を祝うためには相応しいものです。

1、祈っている

前のコリントの信徒への手紙一から始めて1年半以上に渡って、この手紙から御言葉を聴かせていただいて来ましたが、いよいよ最後です。コリント教会のパウロが使徒であることを認めない反対者たちを神がいかなる悪にもお定めにならないようにと、パウロたちは神に祈っています。

聖書協会共同訳はこの箇所を意訳していて、直訳は新改訳の、「あなたがたがどんな悪も行うことにないように、神に祈っています」です。普通に考えると、自分の反対者たちが悪を行って神に悪に定められても構わないのではないか、むしろ普通の人はそのようになることを願うのではないかと思います。

しかしパウロにとって、自分が開拓したコリント教会にいる反対者は自分の敵ではありません。パウロにとって、自分が生み出したコリント教会員は霊的な子どもであって、自分は霊的な父親です。子どもがいくら親に歯向かって反対しても、親にとって子どもは何処迄も可愛い子どもであることは変わらずに、決して敵ではありません。

例え自分の子どもがいくら自分に反対しても、親というのは、子どもがどんな悪も行うことがないように、そして神に悪に定められないようにと祈るものです。それは反対者たちが悪を行うことによって自分たちが適格者、正しい者と見られたいからではなくて、例え反対者たちを注意していたパウロたちが失格者と見られても、あなたがた反対者たちが善を行うためです。

パウロは霊的な親として、例え自分が失格者に見られようが、誰にどう思われようが、自分の霊的な子どもが良い方向に進むなら何でも良いのです。親と言うのはいつの時代でもそういうものですが、子どもはそのような親の心に中々、気付きません。「親の心子知らず」です。

パウロは神から与えられた使徒の権威を持っていますが、神から与えられた権威であるからこそ、何事も真理のため、神の御心に適うためならばできます。しかし神の権威を真理に逆らって、御心に適わない、間違ったことに用いることはできません。

もしパウロの反対者たちが言うようにパウロが使徒でないのなら、使徒である証拠を示すことはできません。しかしパウロたちは例え使徒の証拠を示せなくて、反対者たちを戒規処分することができなくて、自分が弱くても、反対者たちが信仰の内にあって、キリストと共にあって強ければ喜びます。

パウロは徹底的に自分たちのことはどうでも良くて、霊的な子どもたちが良い方向に行くことを望んでいます。表現は悪いですが徹底的な親ばかです。このような愛は直ぐには伝わらなくても、いつかは気付いて貰える時が来るでしょう。

パウロは7節でも「祈っています」と伝えますが、もう一度祈っていると言って、その内容は、「あなたがたが初心に帰ることです」。ここも聖書協会共同訳の訳は意訳で、直訳は新改訳の「あなたがたが完全な者になること」です。完全な者になるというのは、完璧な人になることではありません。

そうではなく、自分の中にある自己中心的な思いのままに従うのではなくて、内におられるイエス・キリストに従うことです。そして具体的には12:18の同じ霊をもって、同じ足並みで歩むことです。

聖書の信仰からずれるということは誰でも通って行くものです。

信仰を持って、聖書に書いてある通りに完全に従って一直線に真っすぐに成長して行く人も中には稀にいるのかも知れません。しかし殆どの人は、信仰を持った後も12:20の8つのこと等をしてしまう自分自身に悩むものです。

そしてその都度に悔い改めて、内におられるイエス・キリストにより頼んで働いていただくように祈って行き、主によって成長させていただくものです。パウロもそのことでコリント教会のために祈っていますが、まず問題のある本人に自覚して貰う必要があります。

そういうわけで、離れていてこれらのことを書き送るのは1節で言った通りに、これで三度目で、三度目の正直です。パウロが次にコリントに行ったときに、もしも同じような状況であれば今度は情けはかけません。

しかし主がパウロに与えてくださった使徒の権威の目的は、教会を倒すためではなく、あくまでも建てるためです。次に厳しい態度を取らなくて済むようにするために、こうして手紙で書いて、また祈っています。

2、愛と平和の神と共に

そして本当に終わりに、パウロは、「きょうだいたち」と呼び掛けます。あなたがたは決して敵ではなく、自分の兄弟姉妹であるということです。そして5つのことを勧めます。これはコリント教会への勧めですが、勿論、私たちを含めて全ての人たちに対する勧めでもあります。

聖書において、3、5、7の数字は完全な意味に使われます。3は三位一体の神、5はモーセが神の律法を書いたモーセ5書、7は神がこの世を創造された7日に基づきます。日本でも縁起が良いとされる七五三の基になっているのかどうかは分かりません。

一つ目は、「喜びなさい」です。「いつも喜んでいなさい」はⅠテサロニケ5:16にもありますように喜んでいることはクリスチャンの基本です。ただ「喜びなさい」と言われても喜びがないところで喜ぶことはできません。

しかし5節にありましたように、信仰の内にあるクリスチャンの内にはイエス・キリストがおられますので、イエス・キリストにある喜びが必ずあります。信仰の内にあるクリスチャンは、むすっとはしていません。いつも喜んでいます。

二つ目は、「初心に帰りなさい」で、新改訳では、「完全になりなさい」です。それは12:20の8つの問題を取り除くことです。三つ目は、「励まし合いなさい」です。それはコリント教会が12:20で表現されている、自己中心になって争い合っているのとは正反対の姿です。

四つ目は、「思いを一つにしなさい」です。それは一人一人が自分勝手に自分は正しいと考えて言ったり、行動したりして、12:20の8つのことをするのを止めることです。思いを一つにするというのは、独裁国家のように機械的に考え方を一つにすることではありません。

皆が内におられるイエス・キリストの心を自分の心とするなら、キリストを頭とする一つの体としての統一性、一致が生まれます。そして内側の心の思いが一つになるなら、外側の行いとして、五つ目の、「平和に過ごしなさい」が実現します。

そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。日本語で、「そうすれば」と言われると、5つの勧めを守ることが条件で、そうすれば愛と平和の神が共にいてくださることが実現するのかと思ってしまいます。しかし「そうすれば」は英語ではandと訳される言葉です。

それは5つの勧めを守ること、それは愛と平和の神が共にいてくださることと同じと言えます。むしろ積極的に言うと、5つの勧めを守るには愛と平和の神が共にいてくださることなしには不可能です。愛と平和の神が共にいてくださるのが5つの勧めを守る源です。

愛と平和の神が共にいてくださるから5つの勧めを守り、それによって祝福されるので益々、強く神と共に歩んで行く、好循環が生まれて行きます。愛と平和の神が共にいてくださるなら5つの勧めを実現します。そうでなければ12:20の8つの争いとなります。どちらを望まれるでしょうか。

愛と平和を望むなら、聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさいと勧めます。実際に口づけするかはその地域や時代の習慣がありますのでそれに従います。挨拶の方法は別としても、いつの時代でも変わらないことは、聖なる親密さをもって、互いに挨拶を交わすことです。

時には色々なことがあって、同じ教会員であっても気まずい思いをして、気まずい関係になることもあります。しかしそのような時でも、主にある聖なる親密な挨拶は欠かしません。仲直りをしたら親密な挨拶を交わすのではありません。まず無条件で同じキリストの体として親密な挨拶を交わします。

それは形式的な形だけのことをするのではありません。どんなことがあっても親密な挨拶を交わします。赦すこと無しには親密な挨拶は出来ませんので、それによってお互いを赦し合います。若しかすると聖なる親密な挨拶という取敢えず形から入って行って、心は後から付いて行くのでも良いのかも知れません。

「すべての聖なる者たちがあなたがたによろしくと言っています」とパウロは伝えます。これはすべての聖なる者たちがコリント教会を覚えて祈っているということです。「よろしく」と伝えられたコリント教会員は心の中で、「よろしく」と言っているすべての聖なる者たちのことを思い浮かべることでしょう。

その時にコリント教会員はすべての聖なる者たちの前で、何も恥ずべきことがなく、後ろめたい思いもなく堂々としていられるでしょうか。コリント教会員は自分自身を探られて悔い改めるべきことはそうしなければという思いにさせられることでしょう。パウロがそこまで考えて書いているかは分かりませんが。

3、祝祷

パウロは他の手紙も全て祝福の祈りである祝祷で閉じていますが、この手紙だけ特別に丁寧に三位一体の神の名による祝祷になっていて、現代でも礼拝の終わりの祝祷の原型になっています。この手紙だけ丁寧なのは当時はまだ、祝祷の文章が定式化されていなかった背景もあると思います。

また10~13章はパウロの反対者たちに対してとても厳しい内容を書きましたので丁寧な文章になったとも思われます。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりの3つの、三位一体の神の名前とその後ろに来る言葉の関係はどのようなものでしょうか。

主イエス・キリストの恵みは、主イエス・キリストが私たちに与えてくださる恵み、それは特に十字架の贖いによる救いです。神の愛は、神が私たちに与えてくださる愛、それは特に私たちの罪の赦しのために、救い主イエスをこの世に遣わせてくださった愛です。

同じように考えますと、聖霊の交わりは、聖霊が私たちに与えてくださる交わりです。交わりとは私たちと誰との交わりでしょうか。第一に三位一体の神との交わりです。第一の戒めは神を愛することです。そして交わりは神とだけではありません。第二の戒めは隣人を愛することですから、隣人との交わりです。聖霊の交わりは神と隣人との交わりです。

三位一体の神の順番を見ますと、普通なら父なる神が1番で、子なる神が2番、聖霊なる神が3番というような気もします。なぜ子なる神である主イエス・キリストの恵みが一番初めなのでしょうか。

それは神の愛の最大のものが主イエス・キリストの恵みである十字架の贖いだからです。

私たちは主イエス・キリストの恵みを通して、神の愛を知って、聖霊の交わりが与えられます。しかし私たちは聖霊の交わりによって、主イエス・キリストの恵みと神の愛を知りますので、すべてが一体となっています。

コリント教会に限らず、すべての人はこの三位一体の神の働きが必要です。三位一体の神の働きがあるところに愛と平和が実現します。逆に言えば、三位一体の神の働き無くして、愛と平和の実現はありません。新しい年も愛と平和の源である三位一体の神と、皆さんと共に、愛と平和を持って歩めますようにお祈りします。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。今年もここまでの歩みをお守りくださり有難うございます。今、色々な困難の中にある方々、悲しみの中にある方々にあなたからの慰めをお与えください。私たちは誰でも愛と平和に満ちた世界で生活したいと願っています。

しかしこの世には色々な問題があります。その多くの原因は私たち自身の内にある自己中心的な罪から出て来るものです。三位一体の神と親しく交わり、内におられるイエス・キリストの心を自分の心とさせてください。愛と平和の神と共に歩み、愛と平和を実現させてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。