キリストにあって生かされる

2021年2月21日
コリントの信徒への手紙一15章12~22節

主の御名を賛美します。今年は4月4日がキリストの復活を祝うイースターです。そして先週の水曜日からキリストの十字架を覚える受難節、レントに入りました。今日は受難節の第一の主日です。先週の祈祷会で話が出ましたが、今年は受難節に復活がテーマの相応しい聖書個所が与えられて感謝です。

1、復活

先週少しお話しましたが、パウロがこの15章で復活について書いているのは、「キリストが死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っている」ことを伝え聞いたからです。

コリント教会はなぜ、死者の復活などない、と言っているのでしょうか。コリントを含むギリシャの地域では、霊魂の不滅は信じていますが、体が復活する思想はありませんでした。ですから使徒言行録17:32で、パウロがアテネで死者の復活の話をすると、それまで話を聞いていた人たちは、嘲笑ったり、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったりしました。

またコリント教会の人たちは、もう終末が来て、自分たちは霊的に完成された、だから異言も語れるのだと考えていたようです。ですからパウロも慎重に復活についてはこの手紙の終わり近くに書いています。ここまできちんと手紙を読んでくれれば、きっと復活についても話を聞いてくれるだろうと考えたのかも知れません。

キリストの復活はキリスト教の中心の大切な教えです。しかしもしも手紙の初めに書いてしまったら、こんな手紙は読む価値が無いと思われたかも知れません。パウロは自分が書きたいことを書くのではなくて、手紙を読む相手を躓かせない様に、受け止め易い様に配慮しています。

これは私たちが異教の日本で伝道をする時にも考える必要があります。さてキリスト教の中心であるキリストの復活を信じられなければクリスチャンにはなれないのでしょうか。これは微妙な話かも知れませんが、私は構わないと思います。

というのは私自身が洗礼を受けた時には復活を信じていなかったというよりは、復活には関心はありませんでした。またキリストの処女降誕も信じていなかったというよりもこれも関心がありませんでした。私が洗礼を受けたのは33歳の時ですが、死者が復活するかしないか、キリストの母が処女であったかどうかには興味がありませんでした。

私の受洗の学びを導いてくださった先生は、復活や処女降誕についても話してくださったと思いますが、私はただ神はおられ、その神は聖書に書かれている神であると信じて、それで洗礼を受けました。洗礼を考えておられる方は、聖書に書かれている奇跡等を全て信じられなければ洗礼を受けられないと考える必要はありません。

復活を含めた福音は奥義です。マタイ13:11で教会共同訳では奥義を秘義と訳しています。奥義は日本の伝統芸等でもそうですが、誰にでも知らされる訳ではありません。

また奥義はその道のことを良く知らない人には例え知らされてもその奥義の意味が何のことか分からない様なものです。福音は神の国に相応しくない状態の者には意味を悟ることが出来ない様に隠された神の知恵です。福音の最も大切なことは、先週の3,4節にある、キリストが聖書に書いてあるとおり死んだこと、葬られたこと、復活したこと、現れたことの4つです。ではそれだけを教えれば直ぐに信じることが出来るのでしょうか。

それ程に簡単な話ではありません。マタイ13章の種を蒔く人の譬を読むと分かりますが、御言である種は、良い土地である、整えられた心の状態でなければ種を蒔いても無駄になります。また御言である種が成長するには時間が必要です。

奥義である復活の福音はゆっくりと時間を掛けて、信仰の成長と共に少しずつ分かって行くものです。植物の成長がゆっくりだからと言って、植物の芽を無理に引っ張ったりすると植物を返って痛めてしまいます。私自身も復活を心から信じられるようになるには時間が掛かりました。

そして復活を信じられるようになると、復活はそれ程には難しいことではないのではと思える様にもなります。なぜなら例えば私は既に存在しています。何も無いところから私を造るよりかは、一度は造られた私を復活させる方が簡単に思えるからです。

いやあなたは何も無いところから造られたのではなくて、両親から造られているのだから、生まれる方が復活より簡単だと思われるかも知れません。しかし私の両親がどの様に造られたかとずっと遡って行くと創世記2章のアダムとエバの創造に辿り着くことになります。創造よりかは復活の方が簡単な様な気がします。

2、復活がなければ

コリント教会のある者が言うように、死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。この文章の意味は、死者の復活の必要がなければ、キリストも復活しなかった、ということです。他の言い方をすると、死者を復活させるために、キリストは復活した、と言えます。

それはローマ4:25に「イエスは、私たちが義とされるために復活させられた」とある通りです。

ここでいう「死者」は死んだ全ての人という意味ではありません。なぜなら死んだ全ての人はクリスチャンもそうでない人も最後の審判のために一度復活させられるからです。

使徒信条で「かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」とある通りです。ここでいう死者はキリストの復活の力に与かるクリスチャンのことです。そして、キリストが復活しなかったのなら、宣教は無駄であり、信仰も無駄になります。

それはそうです。宣教は福音を宣べ伝えることです。福音の最も大切なことは、先程の3、4節で、聖書にかいてあるとおり死んだこと、葬られたこと、復活したこと、現れたことの4つです。

この4つの中心は復活したことで、後の3つの全ては復活に掛かっています。

勿論、復活がなくても、死んだこと、葬られたことの二つは変わりません。しかし死んだことには、3つの意味がありました。一つ目はキリスト、救い主として、二つ目は、聖書に書いてあるとおり、三つ目は、私たちの罪のために、でした。復活が無ければ、まず二つ目の聖書に書いてあるとおりの死ではありませんでした。復活が無ければ、一つ目のキリスト、救い主ではないことになります。キリストは三日目の復活を約束されていましたので嘘だったということになってしまいます。キリスト教が他の宗教と比べて優れている点は、キリストだけが復活されたからです。復活が無ければ、三つ目の私たちの罪のための死でもないことになります。そしてそれはまだ救われていないことになりますので、今もなお罪の中にいることになります。

復活は、キリストの十字架の死が私たちの罪のためであって、その罪が赦されたことを証明するための救いの全てです。その救いを証明する復活がないのなら宣教は無駄であり、信仰も無駄になります。

3、偽証

しかしこれは無駄で済むことではありません。無駄というのは言ってみればゼロということです。それどころか、私たちは神について偽証した者ということになります。偽証することは十戒の9番目の戒めの、「偽証してはならない」に違反する罪で、ゼロではなくてマイナスです。

なぜなら、本当に死者が復活しないのなら、神が実際には復活させなかったキリストを、復活させたと言って、神に反して証言したことになるからです。福音の大切なことの3番目の復活したことと4番目の現れたことを、なかったのに証言したことになります。

その様な神に反する証言は神を冒涜することになり、神への冒涜に対する罰はレビ24:16によると石打の刑です。12~17節は平行法で書かれています。16節は13節の繰り返しで、17節は14節とほぼ同じ内容が繰り返されています。

そしてキリストが復活しなかったのならと仮定すると、結果として私たちは今もなお罪の中にいることになるという重大な結論に辿り着きます。今もなお罪の中にことになるとするとさらにどんな問題が出て来るでしょうか。

そうだとすると、キリストにあって眠りに就いた人々、つまりクリスチャンでこの世で死んだ人々は、今もなお罪の中にいることになるので滅んでしまったことになります。つまりキリストの復活がないのなら、キリスト教には救いはないことになります。

つまりそれは、この世にあってキリストに望みをかけているだけになります。キリスト教に限らずに、宗教は弱い人のための者だという言われ方を良くします。この世で余りにも悲惨な状況で、宗教でも信じなければ心の支えがなくて生きて行けないからと説明されます。

それは宗教をこの世にあってだけのものと考えてのことでしょう。確かにキリストが復活しなかったのなら、復活して救われるという内容の福音を宣べ伝えているのですから、クリスチャンはすべての人の中で最も哀れな者となります。

それ程迄にキリストの復活は、キリスト教の存在に関わる大切なことです。そうすると復活したことの裏付けとなる証拠として、現れたことが大きな意味を持つことになります。そこでパウロは現れたことを重要視して5~8節に詳しく書いています。

この様に復活の後に多くの人に現れた様に、キリストは死者の中から復活し、原語では復活させられました。キリスト教では証詞が重要視されます。それは神の力が現れたことを証人として証言することだからです。

証詞はキリストが天に帰られて、代わりに助け手として働かれる聖霊の働きを証言することです。つまり証詞をすることは、間接的にキリストの復活を証言していることになります。私たちが証詞をする時には、それはキリストの復活の証言であるとの意識を持ちたいと思います。

4、キリストにあって生かされる

そしてキリストは眠りに就いた人たちの初穂となられました。初穂という言葉には2つの意味があります。一つ目は初穂は初物という意味で、これから同じ様なものが続くということです。二つ目は保証、手付金の意味です。

キリストは復活の初穂と書くのではなくて、眠りに就いた人たちの初穂と書かれています。キリストの復活はキリストにあって眠りに就いたクリスチャンの初穂であり、キリストに続くクリスチャンの復活の保証、手付金であって、必ず実行されます。それはどの様な理由によるものなのでしょうか。

創世記でアダムとエバが創造された時には死はありませんでした。しかし創世記3:6で神に食べると死ぬことになると言われた善悪の知識の木の実を食べて死ぬことになりました。初めに食べたのはエバですが、11:4にある通り「女の頭は男」ですから、アダムの責任であり、アダムは初めての人であり人類の頭でもあります。

つまり、頭であるアダムにあってすべての人が死ぬことになったように、死が一人の人を通して来ました。同じ様に、死者の復活も一人の人を通して来ました。どなたを通してでしょうか。死が一人の頭を通して来たのですから、死者の復活もまた一人の頭を通して来る必要があります。

教会の頭であるキリストを通してです。頭であるキリストが復活することによってキリストの体であるクリスチャンも復活します。教会の頭であるキリストにあってすべての人が生かされることになります。それは今年度の茂原教会の御言である、神が本来造られた「神のかたちに生きる」者とされることです。

キリストにあって眠りに就いた人々も生かされることになります。またこの世にあっても、生き生きと今までは生かされていない人々も、キリストの復活の力によって本来の人生を生かされることになります。キリストを信じる者は、この世にあっても復活の恵みの力に与かることが出来ますし、この世の後にも復活に与かることが出来ます。

キリストの復活を理性的に信じることは、もしかすると難しいかも知れません。しかしあなたの人生に働く不思議な神の力を感じるならキリストを信じてください。復活の奥義は時間と共に聖霊があなたに悟らせてくださいます。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはキリストの復活の話は良く聞きます。しかしこれ程、理性的には信じることが難しいことはありません。12:3に聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできないとある通りです。この礼拝に連なるお一人お一人に聖霊が働かれ、「イエスは主ある、そして復活された」という確信をお与えください。そして復活の力に与かって歩む者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。