最後の敵としての死

2021年2月28日
コリントの信徒への手紙一15章23~28節

主の御名を賛美します。私が初めて教会に行ったのは30年位前に英国に行った時です。理由の一つは英語には聖書の言葉がそのまま使われているものもあるので、英語を理解するには聖書の考え方を知る必要があると思ったからです。何かを理解するにはその背景を知ることが必要です。

1、復活の順番

先週の終わりのところで、キリストにあってすべての人が死から生かされることになるとありました。ここの生かされるすべての人は、キリストにあってですから、キリストにあるクリスチャンか、または旧約聖書の時代にキリストのことは知らなかったかも知れませんが神を信じていた人です。

死から生かされる一人一人にはそれぞれ順番があります。14:33aに「神は無秩序の神ではなく」とありましたが神は秩序、順番を重んじられるお方です。まず初めは初穂であり頭であるキリストですが、このことは約2千年前に起こりました。

次いでは、キリストが来られるときですから、初めのキリストの復活と次の復活の間には随分と長い時間が開いていることになります。今の時点で既に約2千年開いています。コリント教会員のある者が12節で、死者の復活などないと言っている理由の一つは、自分たちは既に復活の体に与かっていると考えていたからです。

洗礼を受けることは自我に死んで、霊的に新しく生まれ変わることで、キリスト教では新生と言います。コリント教会はそれを復活と考えたのかも知れません。そのことをパウロは、4:8で「あなたがたはすでに満腹し、すでに富んでいます。私たちを抜きにして、王になっています」と言います。

コリント教会はもうこの世の終わりである終末を迎えて復活にも与かったから、もうこれ以上の復活はないと考えたようです。それを訂正する意味でパウロは初めの復活はキリストで、次はキリストが再び来られるときであると説明します。私たちは今、その間にいます。

それによってコリント教会がもう終末が来て、自分たちはもう復活の体に与かったと考えているのは間違いであると教えます。さて次の、キリストが来られるときに復活する、キリストに属する人たちというのはどういう人たちのことでしょうか。

聖書を読む時に考える必要のあることがいくつかありますが、その一つは聖書は断片的に書かれていることです。几帳面な日本人は一つの文章から全てを読み取ろうとします。しかし聖書はその個所で強調することだけを書いて、それ以外の全ては書きません。

これは文化的な背景の違いもあるのだと思います。私たちが自分たちとは違う背景で書かれている聖書を理解するには、その背景を考えて読む必要があります。それは例えば英語の文章を理解するには英語の背景にある聖書を知って考える必要があるのと同じです。

聖書は断片的に書かれていますので全体的に考えるには、関連する個所を読み合わせる必要があります。ここの「キリストが来られるときに、キリストに属する人たち」の細かいことは、テサロニケの信徒への手紙一 4:15~17に書かれています。

それによるとキリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている人たちが、復活した人たちと共に雲に包まれて引き上げられます。

それから、第三段階として世の終わりが来ます。しかしこれも聖書に書かれている将来に起こる全体の出来事を考えると随分と大雑把な書き方です。

キリストが来られてから、世の終わりに至る迄の間には、キリストが千年の間支配される千年期、千年王国と呼ばれる期間等があるはずです。しかしパウロはここで終末の出来事を全て説明しようとしているのではありません。ただ世の終わりの前にキリストに属する人たちは復活させられることだけを言おうとしています。

2、最後の敵としての死

そして世の終わりが来るその時にキリストがされることは、父なる神に国を引き渡されることです。その前の、キリストがあらゆる支配、あらゆる権威と勢力を無力にされることは、原文のギリシャ語の文法からすると、その時である父なる神に国を引き渡される前にされることです。

キリストは国を完全なる状態にして父なる神に引き渡されます。なぜならキリストはすべての敵である、あらゆる支配、あらゆる権威と勢力をその足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。

逆に言うと、現在私たちが生きている世界は、キリストによる支配が既に始まってはいますが、今だ完成はしていません。私たちは、この「既に」と「今だ」の間の世界に生きていることを正しく受け止める必要があります。

コリント教会はキリストがこの世に来られたことによって既に終末が来て、自分たちは完成したと誤解して、熱狂的になって驕り高ぶってしまいました。しかし私たちは既に救いの恵みに与かってはいますが今だ完成はしていません。

ですから希望を持って待ち望んで、絶望をする必要はありませんが、もうこれで完成したと自己満足するのではなくて、神の武具で身を固めて霊の戦いの道を歩む必要があります。

キリストはすべての敵をその足の下に置かれて、最後の敵として、死が無力にされます。キリストは二千年前に死者の中から復活されて既に死に対して勝利されています。しかし最後の敵である死は今だ無力にはなってはいません。

ですからクリスチャンになっても私たちはこの世の死を通る必要があります。私たちは頭であるキリストの復活の力に与かって、しかるべき時に復活させられるのは確実ですが、それはキリストが再び来られる時です。キリストが再び来られる時に私たちの復活は完成します。

それは「神は、万物を、その足元に従わせた」からです。これは詩編8:7の引用です。この万物というのは、あらゆる支配、あらゆる権威と勢力、そして最後の敵としての死です。「万物が従わせられた」と言われるとき、万物をキリストに従わせた方である父なる神が含まれていないことは、明らかです。

万物が御子キリストに従うとき、御子キリスト自身も、万物をご自分に従わせてくださった方である父なる神に従われます。27、28節には、「従う」という言葉が6回繰り返されて強調されます。神であるキリストも父なる神に従われて、14:40にあった秩序を重んじておられます。そして神がすべてにおいてすべてとなられます。

3、死への対応

今日の聖書個所で、世の終わりに、最後の敵として死が無力にされることの意味を改めて考えさせられます。それは逆に言うと、死は現時点ではまだ無力にされていないということです。日本は高齢化社会と、つい言ってしまいますが、言葉の定義によると高齢化社会とは65歳以上の人が7%を超えている状態のことで日本では50年以上前の1970年のことです。

日本は1994年には高齢者が14%を超えて高齢社会になりました。そして2007年には21%を超えて超高齢社会になりました。高齢者が多くいることは大きな恵みであって感謝なことです。しかし天に召される方が多くおられるのも現実です。

数年前にあるクリスチャンの方の家族から連絡がありまして、クリスチャンの方が天に召されて、以前に茂原教会に通っていたことがあるので葬儀を依頼したいとのことでした。私は、クリスチャンであってもなくても誰の葬儀でも引き受けるつもりです。ましてや茂原教会に関わりのある方ならなおさらです。

それはすべての人は神の御手の中でこの世に生まれて召されるからです。そして葬儀を行うことは牧師に与えられている役割であると共に特権でもあると思うからです。その遺族に話を聞くと、遺族にクリスチャンはいないとのことでした。この様なケースはこれまでにも何件かありました。

遺族にクリスチャンはいないけれど、召された本人の信仰を尊重してキリスト教式で葬儀を行うケースです。その時に思うことは、召される方は葬儀という若しかすると本人にとって最後になるかも知れない機会も用いて家族に伝道したいという思いがあるのではないか、またそれが神のご計画かも知れないということです。

私は故人のそのような思いに応えるためにも、葬儀の説教の中で福音を語らせて頂いています。その数年前の場合は、私が司式でしたが、式場が一般の葬儀場でしたので、葬儀場のスタッフが進行係を務めていました。

私は説教の中で、「〇〇さんのお身体はここにおられますが、魂は今、天国におられ安らいでいます」と話しました。しかし進行係の人は後で参列者に、「亡くなった人は、亡くなった後も暫くは耳が聞こえていると言われます。どうぞ耳元で語り掛けてください」と言いました。

私は声には勿論出して言いませんが、「この進行係は私の説教を聞いていたのだろうか。魂は天国におられると言っているのに、耳がまだ聞こえるとはどういうことなのか。そもそも亡くなった後も暫くは耳が聞こえる等と誰が何を根拠にそんなことを言っているのか」と言いたい気分でした。

さらに私は、「〇〇さんは今ここにおられる皆さんと天国で再び会うことを楽しみにしています」と言いましたが、進行係は後で、「これで〇〇さんとの最後のお別れです」と言いました。葬儀場という厳粛な場で、進行係と私の言うことは全く噛み合っていませんでした。

その時はキリスト教式の葬儀を行っているのに、宗教者の言うことを尊重しない進行係に少し憤慨していました。しかし後で冷静になって、遺族にとって本当に必要な言葉はどちらだったのだろうかと考えさせられました。私たちは天に召された方の遺族に会う時に何か言葉を掛けて慰め、励まそうとします。召された方がクリスチャンであれば、私も葬儀の説教で、「今は天国のキリストの御許に行かれました、また私たちには天国での再会の希望があります」等と話します。

また「召されたことは残念ですが闘病の苦しみからは解放されて天国にいますね」といった言葉等も耳にすることがあります。それぞれの言葉は何とか遺族を慰め、励まし、福音を伝えようとする真実な言葉ではあると思います。

しかし死という現実の深い悲しみの中にある遺族に、希望、慰め、励まし等の言葉が本当に必要でしょうか。自分自身が遺族として葬儀に出席する時に、希望、慰め、励まし等の言葉は、自分が心から聞きたい言葉なのだろうかと思うと、そうではないように思えるからです。

27、28節で「従う」という言葉が繰り返されていましたが、クリスチャンはキリストに従う者です。キリストは人が召された時にどのように対応されたでしょうか。ヨハネ11:35で、マリアとマルタの兄弟のラザロが死んだ時に、「イエスは涙を流された」とあります。

ローマ12:15も「泣く者と共に泣きなさい」と言います。悲しみの中にいる人にはその悲しみを共にして、寄り添うだけで、他の言葉は余り必要がないような気がします。

イスラエルには、「泣き女」という職業があってエレミヤ9:16に出て来ます。泣き女は、泣き叫んで人々の悲しみを引き出す職業です。コヘレト3:4は「泣くに時がある」と言います。喪に服す期間です。人は泣く時にはきちんと泣いて、悲しみを通り越して初めて、神を見上げる次の段階に進みます。きちんと悲しまないと次の段階に進めません。

泣き女はそれをサポートする職業です。その意味では、葬儀場の進行係が言っていたように、亡くなった人に語り掛けさせたり、これが最後のお別れですと言って、悲しみを引き出して泣かせるのは、一般の葬儀では泣き女の様な役割を果たしていると言えます。しかし悲しませた後に高価な墓地や色々な宗教グッズに誘導するのは宗教ビジネスで好ましいとは思えませんが。

クリスチャンは天国の希望があるのだから葬儀で悲しむのは信仰的ではないということは全くありません。愛する人とのこの世の別れを嘆き悲しむのは当然のことです。私は葬儀に参列される方々に葬儀の後も何回かお話する機会があるのであれば、葬儀では悲しみを共にする説教が中心でも良いのではないかという思いもあります。

天国の希望は死の悲しみを十分に通った後の次の段階だからです。ただ葬儀に参列される方々に話す機会は、その時一回限りと思われる方が多くおられて、召されたクリスチャンの遺族に福音を宣べ伝える貴重な機会という思いもあります。そしていつでも福音を語るのが牧師の役割であるとの思いもあります。

ただキリストは死に既に勝利されましたが、死は最後の敵としてまだ無力にはされていません。勿論、死に気を取られ過ぎるのも問題です。クリスチャンに取っては神がすべてにおいてすべてだからです。この様な現実の中で、皆さんは愛する方が召される遺族にどの様な言葉を掛けておられるでしょうか。

またご自分が遺族となる時にどの様な言葉を掛けられることを望まれるでしょうか。これは普段から準備しておく必要もあることですが、最終的には聖霊によって導かれる神の愛の言葉を語らせて頂きましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。キリストは死に既に勝利されていますが、死はまだ無力にはされておらず、私たちはこの世の死を通ります。私たちが死に気を取られ過ぎず、また信仰の論理にも捕らわれ過ぎずに、死の悲しみを通る方々に寄り添うことが出来ますようにお導きください。そして悲しみの先には復活の希望があることを必要な時に語る者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。