成し遂げられた

2021年3月28日
ヨハネによる福音書19章23~30節

主の御名を賛美します。今日は2020年度の最後の礼拝ですが、今年初めての会堂での礼拝です。コロナウィルスの感染が無くなった訳ではありませんが、こうして会堂で礼拝を行い、またYoutube等でも共に礼拝出来ることを感謝します。

先日、急に桜が見たくなって妻が行ったことのない野見金公園に行きました。野見金公園は以前には千葉聖会の会場にもなったユートピア笠森の近くです。野見金公園は第二駐車場も広く整備されていましたが、ユートピア笠森の千葉聖会の会場になったホールや宿泊棟は完全に取り壊されていました。一つの時代が終わって新しい施設に生まれ変わるのだなと思わされました。

1、服を分けくじを引く兵士たち

今年のカレンダーですと、2月17日の水曜日から主イエスの十字架の受難を覚える、受難節、レントに入りました。今日から受難週に入りますが、今日は棕櫚の主日です。今日はヨハネによる福音書ですと12:12で、主イエスが子ろばに乗られてエルサレムに入城された日です。

人々が棕櫚、なつめやしの枝を道に敷いたり、手に持ってホサナ(今、お救い下さい)と叫んでいたことから棕櫚の主日と言います。福音書は主イエスが十字架につけられる受難週の1週間のことが詳しく書かれていますが、今日の聖書個所は今週の金曜日に主イエスが十字架につけられた受難日のことです。

兵士たちは主イエスを十字架につけてから、その服を取って、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。ということは兵士は4人です。この当時は死刑を執行する人が死刑囚の服を分けあうことが習慣だったようです。この辺りの感覚は現代の私たちとは随分と違うなと感じます。

自分が死刑にして殺す相手の服をはぎ取って、欲しいかと聞かれたら殆どの人は要らないと言うと思います。聖書には敵を滅ぼして敵の家に住む等の記事もあります。自分が殺す相手の家や服など、何となく不気味だから要らないと現代の人は感じると思います。

しかしこの当時は現代のように物が豊富にはなくてとても貴重で、服は貴重な財産です。下着も取ってみましたが、それには縫い目がなくて、上から下まで一枚織りでした。下着は縫い目が無いので、裂いたりしたら役に立たなくなってしまいます。

そこで兵士たちは、「下着は裂かないで、誰のものになるか、くじを引こう」と話し合いました。下着のことから考えると服は恐らく四枚あった訳ではなくて、縫い目があったので、縫い目で四つに分けたようです。なぜ、兵士たちが服や下着をどう分けたのか等を聖書にわざわざ書いているのでしょうか。

それが詩編22:19の「彼らは私の服を分け合い衣をめぐってくじを引いた」という御言葉が実現するためだったからです。兵士たちは自分たちの利得のためだけにしたことですが、御言葉の成就でした。厳密に言えば、服と下着の他にも、ベルトや履物もあったと思いますが、それはここでの関心事ではありませんので書かれていません。

それにしても随分と情け容赦のない酷い仕打ちだと思います。いくら死刑囚とはいえ、身包みを剥いで丸裸にするというのは人権も何もあったものではありません。

2、服を着せられる神

神は愛の溢れるお方ですから、服を奪うようなことはしないで、逆に着せてくださるお方です。創世記3章でアダムとエバが神が食べることを禁じられた善悪の知識の実を食べる罪を犯した時に、自分たちが裸であることを知りました。すると神は3:21で皮の衣を作って二人に着せられました。

この当時、服は夜に寝る時には寝具として使われました。申命記24:13は、「日没にはその担保を必ず返さなければならない。そうすれば、彼はその上着にくるまって寝ることができ、あなたを祝福するであろう」と言います。服を着るというのは、寝る時に命を守るために大切なことです。

先週、私たちはコリントの信徒への手紙一15:53、54で、神の国を受け継ぐために、朽ちないものであり、死なないものである主イエス・キリストという礼服を着る必要があることを御言から聴きました。今日の聖書個所はそれと全く正反対の行いです。

アダムとエバの子孫である私たちは本来は神の国に入ることは出来ない者ですが、主イエスを信じる者には神が主イエスを着せてくださり神の国に招いてくださいます。

そのことを考えるとこの時の兵士たちが如何に的外れなことをしているのかが分かります。兵士たちは主イエスの服を取って分け合いましたが、本来は全く逆で自分たちは主イエスを着せて貰うことが必要でした。

主イエスが十字架の上のルカ23:34で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という言葉には、その様な兵士たちの無理解も含まれていたと思われます。

マタイ25:31からに、最後の審判のことが書かれています。神の国を受け継ぐ羊である人たちに対してその理由をいくつか挙げますが、その一つが「私が裸の時に着せてくれたからだ」と言います。いつお着せしたでしょうかとの問いに、王はこの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのであると答えられます。

この御言葉には懐かしい思い出があります。私が30年位前に英国に行った時には、スーツケース一つで、冬の服は嵩張るので持って行かないで英国で買おうと思っていました。しかし冬服が結構高くて買えずに、冬になっても私は薄着でいました。通っていた教会の牧師が憐れに思ったのかコートをくれました。

それが聖書の御言を実践することであるとは当時は全く気付きませんでした。さらに服を着せるとは、神の国に入るためには主イエスを着させて頂く必要があるように、着せてくれる方の義を着て与かることです。牧師のコートを貰って着ていたために私が牧師になったのかは分かりません。

ただその牧師の生き方からは大きな影響を受けました。英国人は先祖の上着等を修理をして大切にして引き継ぐ習慣がありました。

そこにはただ単に物を大切にするだけではなくて、その服を着ていた先祖の何かに与かろうとする聖書的な発想があるのかなと思わされます。

3、主イエスを着る兄弟姉妹

主イエスの十字架のそばには、その母マリアと母マリアの姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていました。母マリアの姉妹はマタイがゼベダイの子らの母と呼び、マルコはサロメと呼ぶ者と同一人物とすると4人です。

4人の兵士たちは主イエスの服を剥いで取り合っていました。それに対して4人の姉妹は主イエスを救い主と信じて、主イエスという礼服を着せて頂く者です。この4人は兵士たちと本当に好対照な姿です。主イエスを着るクリスチャンはどの様な生き方をするのでしょうか。

主イエスは母とそのそばにいる愛する弟子、これはこの福音書を書いたヨハネと考えられます、とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われました。それから弟子には、「見なさい。あなたの母です」と言われました。

主イエスはご自分はもうすぐ十字架で死なれるので、母の世話を弟子に命じられました。このことから主イエスの父であるマリアの夫であるヨセフはもう亡くなっていたと思われます。しかし主イエスには同じ母マリアから生まれた弟のヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダと妹たちがいます。

それなのにヨセフと思われる弟子になぜ母の世話を命じられたのでしょうか。確かに母マリアの姉妹がゼベダイの子であるヨハネの母であれば、マリアとヨハネは叔母と甥です。しかし主イエスは信仰を持っていない血縁の兄弟姉妹に母を託すのではなくて、信仰を持つ神の兄弟姉妹に母を託しました。

それ程までに神にある兄弟姉妹の繋がりは大切であるということです。その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取りました。それは主イエスがルカ8:21で、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われた通りです。

私たちも本当に神の家族を大切にするものでありたいものです。血縁等の家族から見るとお一人である方にも神の家族は沢山いることをぜひ覚えて頂ければと思います。

この時に母マリアは主イエスが救い主であることをどこ迄理解していたのかは正確には分かりません。しかし主イエスは最後に肉親の母の世話の手配をされました。それは十戒の5番目の「あなたの父と母を敬いなさい」の御言を実践されるお姿です。

4、渇く

主イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われました。主イエスは、これまで尋問や拷問を受け、十字架を背負って歩き、さらに十字架につけられてからも時間が経っていたことでしょう。渇くどころか舌が喉に張り付く位だったと思います。

そこには、酢を満たした器が置いてありました。酢を新改訳は酸いぶどう酒と訳しています。これは当時の兵士たちの飲み物です。人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、主イエスの口元に差し出しました。

この差し出した人々は新改訳が訳しているように兵士たちでしょう。主イエスの「渇く」という言葉に流石に憐れに思ったのでしょうか。主イエスはこの酢を受けられました。この様な細かいことをわざわざ記しているのは、御言の実現だからです。これらは詩編69:22の、「彼らは私の食物に毒を入れ渇く私に酢を飲ませようとします」です。

主イエスが「渇く」と言われたことは、一つは肉体的な喉の渇きです。しかし他に霊的な渇きの意味もあると思われます。詩編42:3の「神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか」という、父なる神に見捨てられた断絶に対する渇きです。

またマタイ5:6で「義に飢え渇く人々は、幸いである」と言われましたが、目の前の兵士たちの様な不義を行う者たちに対してへの義の渇きです。

5、成し遂げられた

しかし主イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました。ここで主イエスはこの世の命を一度終えられましたが、それは決して死に対して負けた訳ではありません。旧約聖書の御言葉を全て成し遂げられて完了した勝利の言葉です。

神の側で出来ることはこの時に全て成し遂げられました。全ての人間は本来、今年度の茂原教会の標語通りに、神のかたちに生きる者です。しかしアダムとエバの子孫としてアダムのかたちとして生まれて来るために原罪という罪の性質を持っています。

そのために主イエスが十字架の上で渇きを覚えられたように、私たちは父なる神との間には断絶があり、主イエスの服を分け合った兵士たちのような不義を行う者です。これは人間の努力だけでは解決の出来ない問題です。

しかし今や、主イエスが十字架につかれて、主イエスを信じる者の全ての罪を赦してくださいます。そして主イエスの母マリアと愛する弟子のヨハネが愛する家族となったように、私たちを神の家族として迎えてくださいます。

私たちの救いに必要な全ては主イエスが十字架で命を捨てられて成し遂げてくださいました。私たちは聖霊の導きの中で、主イエスの十字架をただ感謝して受け入れさせて頂き、救いに与かる者とさせて頂きましょう。そして主イエスが十字架の死から三日目に復活されたように復活に与かる者とさせて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たち人間は決して悪い性質だけを持っているものではありません。しかし今日の兵士たちの記事にあるように、私利私欲によって不義を行う性質を持つ者です。これは私たち人間の努力だけではどうにも解決することの出来ない問題です。

しかしあなたはこの問題の解決のために、お独り子である主イエス・キリストを私たち人間の罪の贖いとして十字架につけられました。私たちが聖霊の導きの中で、そのことの意味を理解し、感謝して受け入れることが出来ますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。